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 第一章 近代福井の夜明け
   第一節 明治維新と若越諸藩
    三 諸藩の藩制改革
      郡県制の試み
 前福井藩主松平春嶽(在東京)は、明治三年(一八七〇)十月の茂昭(在福井)あて書簡のなかで「七八年之末ハ如何哉難計候ヘ共、此表当節郡県論者一切無之」と書き、また同十三日の書簡でも「薩藩封建論大ニ主張する趣、夫故か藩制之被仰出丈ケハ先日有之候得共、其後郡県論之取沙汰ハ当時ハ無之候」と書き送っている(『松平春嶽未公刊書簡集』)。しかし、四年に入って、藩制の改革案について、土佐藩、米沢藩などの諸藩と連絡、協議を重ねるなかで、さきの伺書にみられるような、積極的な郡県論が形成されるのであるが、その背景には、薩長両藩の専横に対する反発、さらには自らも政府の一角に参加しようとする意図があったといわれる(松尾正人『廃藩置県』)。この諸藩の動きは伺書提出以降も、福井藩からは大参事小笠原幹などが参加して続けられ、「封建論」を否定して議院を開設する「真の郡県制」の実現を政府に要求する画策を行うまでになっている(「宮島誠一郎日誌」)。
 同年五月には「越前一州一県之義」を四藩(丸岡、鯖江、大野、勝山)にはたらきかけるが受け入れられなかったため、さらに六月には、新設の本保県に他藩を併合することとして再提案する。これに対し、各藩の重役は福井に集まって対策を協議し、同意できない旨回答するのであるが、そのなかで、自分たちの藩は小藩のため天下に先んずる気力もなく、また家臣団を掌握する自信もなく、万一物議を生じるようなことがあれば朝廷に対して申し訳ないとしている。また、小浜藩も「議論公明ナリ」と評価しながらも、全国の動向を測りかねるとして、その積極策に疑問を呈している(田部井英明家文書)。
 
写真009 越前四藩の答書

写真9 越前四藩の答書

 福井藩のこの積極的な動きも、薩長による廃藩置県の断行により挫折する。福井藩と行動をともにした米沢藩の宮島誠一郎は、廃藩置県断行の翌日十五日の日記に「朝廷之御処置未タ三藩之鼻息ヲ仰キ面目なし、去りながら、先ず此一挙アッテ一層之進歩ナリ」とその微妙な心境を記している(「宮島誠一郎日誌」)。




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