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 第一章 近代福井の夜明け
   第一節 明治維新と若越諸藩
    三 諸藩の藩制改革
      藩制の公布
 明治三年(一八七〇)九月、政府は「藩制」を公布し、前年六月に出された「諸務変革」をさらに徹底させた。すなわち、藩の石高を物成高に統一し(雑税も八両を一石に換算)、一五万石以上を大藩、五万石以上を中藩、五万石未満を小藩として、職員数などの基準とした。ちなみに、福井・小浜藩は中藩、丸岡・鯖江・大野・勝山藩は小藩に格づけされた。また職員はさきの「職員令」に定められたもののほか、大属・権大属・少属・権少属・史生と下級職員まで規定された。
 藩の財政については、知事家禄は現米(物成高)の一割に制限され、残りのうち一割が陸海軍費、九割が藩庁費とされたが、これには士卒禄が含まれ、さらに藩債の償却、藩札の整理が義務づけられた。これによって藩財政・藩士の窮乏はいっそう進んだといわれるが、藩の統制・画一化が進行し、中央集権化を一段と進めることとなった。
 小浜藩はこれにもとづき、三年閏十月制度を改め、従来の郡方、郷方、市方、社寺方などの諸役所を廃止して、租税掛と戸籍掛の両役所に統合、民政の簡素化をはかった(資10 一―三一)。また、鯖江藩では四年二月「聖旨を奉体仕り、藩庁に於て衆官熟評之上改選仕候」として改定藩制を政府弁官に報告している。このなかで、藩債二七万四一四九両余の償却については、知事家禄、士族卒常禄、公廨入費などに分賦し、四〇年で償却の見込、また、藩造紙幣五万両については、年々五千両ずつ一〇年で整理すると報告している(田部井英明家文書)。
 福井藩では、藩知事松平茂昭が二月二十八日「今般藩制改革筋之儀厚伺度」と上京、四月十日には「藩制御釐正之伺書」を政府弁官に提出している。このなかで茂昭は士族卒も「文武常職」を解き、人民平均して広く人材登用をはかること、士族卒とも自由に農工商の業に就き、あるいは廃刀を許すことなど、七条にわたって積極的な改革案を提示している。この伺書は、若干の修正の後、五月三十日には藩内に示された(「家譜」)。



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