目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 近代福井の夜明け
   第一節 明治維新と若越諸藩
    三 諸藩の藩制改革
      版籍奉還
 明治二年(一八六九)一月二十日、薩長土肥四藩の藩主連署による版籍奉還の上表がなされると、鳥取、佐土原藩についで、二十八日には福井藩も「其土地人民悉ク朝廷之御管轄ニ相成、天下郡県之制度古ニ復」すことを望んで上表を提出した(資10 一―一七)。少し遅れるが、二月二十一日勝山藩、ついで同二十五日小浜藩、同二十九日大野藩、同三十日丸岡藩、三月五日鯖江藩の各藩もあいついで上表を提出した。
 政府は各藩に版(土地)と籍(人民)を取調べのうえ差し出すことを命じ、六月十五日に奉還を請許し、十七日以降各藩主を知藩事に任命した。続いて政府は、同月二十五日、諸藩に対して一一か条(諸務変革)にわたって指示をあたえ、十月までにその改革の成果を報告するよう命じた。それは従来の支配地に対して、表高でなく実際に藩に収納される現米総高をはじめとして、諸産物や諸税、公廨(役所)費用、職制、職員・藩士・兵卒の員数、給禄・扶持米、支配地絵図、戸口などの調査報告を求めたものであった。また、旧藩主の家禄を現米総高の十分の一に定め、それに準じて家臣の給禄も適宜改革するよう命じた。さらに藩知事を華族に列するとともに、旧藩士を一律士族とし、旧来の主従関係を制度的に断ち切った。そのため政府が人材を登用する場合、藩に問い合わせずに廟議だけで選考できるようになった。ついで同七月の「職員令」により藩の職員は、府県と同様に知事以下、大参事、権大参事、少参事、権少参事が定められて、地方官として太政官の官制表に格づけされ、また職掌においても、士族と藩兵を管轄すること以外府県とほとんどかわらなくなり、画一化がいっそう進められた。
 福井藩では十月二十二日にさきの指示についての報告書を提出しており、大野藩は十二月二十四日に提出している。これらの報告には給禄の削減計画が含まれており、これにもとづいて各藩では禄制の改正が行われ、廃藩置県までには全国で三八パーセントの俸禄が各藩によって整理されたといわれている(資10 一―二二、二四)。
 福井県域における各藩の禄制改正による削減率は、表1によれば、小浜藩の五割一分が一番高く、ついで大野藩の三割七分と続き、一番低い勝山藩でも二割強の削減を行っている。ちなみに、福井藩の場合、武生本多家二万石は現米七四一石で九割減、筆頭家老狛家四五〇〇石は八割減の三三三石余、一〇〇石の知行取では現米四六石余で三割減、切米一五石四人扶持では現米二〇石余でこれ以下は削減率一割以下となっている。高禄の旧藩士ほど手痛い改革となっているが、それはまた、大多数の下級士族卒が、すでに削減不可能な状況におかれていたことを物語る。またこの改革によって、地方知行が廃止され、俸禄は藩主からではなく藩庁からあたえられることになり、まさに封建制度の終わりを告げる出来事となった。 

表1 禄制改革による改正高

表001 禄制改革による改正高

注) 「福井県史料」36による。

福井藩では、十一月二十五日に改革の内容を示し、高知席、寄合席などの家格を廃止して士族とし、席順は禄高順とした。また武生(同年九月府中を改称)本多興之助に対して「武生表御預且仕置之義免じられ候」と二万石の知行地と領民の支配権を取り上げ、その家臣については物頭以上を士族、それ以下を卒族として軍務局支配とし、また社寺農商は民政局支配とした。さらに翌日掌政局を掌政堂と改称、他の局もそれぞれ民政寮、司計寮、軍務寮、監正寮と改称した。
 敦賀藩は三年三月、その藩庁所在地の名をとって鞠山藩と改称していたが、版籍奉還の後、小藩では藩屏の任に堪える力もなく、役所費用などの冗費を省くためとして、本家筋の小浜藩への合併を申請し、九月十七日認可されている。当時の鞠山藩の負債額は三万五七〇〇円余で、そのうちの八割は維新以後に発生している(丹羽邦男『明治維新の土地変革』)。藩財政が急速に悪化したことが合併を余儀なくさせたのである。



目次へ  前ページへ  次ページへ