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 第一章 近代福井の夜明け
   第一節 明治維新と若越諸藩
    二 福井藩公議政体路線
      王政復古後の対応
 慶応三年(一八六七)十二月九日の王政復古が、薩長討幕派の優勢のもとに行われたとはいえ、維新政権のなかに、福井藩からは議定に松平慶永(春嶽)、また参与には、のちに起用された者を含めて、中根雪江・酒井十之丞・毛受洪・由利公正・青山貞の五人が選ばれた。このことは、維新政権が、福井藩の公議政体路線を無視できない政治的立場にあったことを率直に示すものであった。
 たしかに、討幕派によるクーデター方式や徳川慶喜の維新政権からの排除、討幕派公卿の復帰などについては、同派の主張がほぼ貫徹できたものの、肝心の慶喜に「辞官・納地」を求めることを、福井・尾張両藩老公のあっせんに待たざるをえなかったのは、その後に公議政体派の勢力を挽回させる重要な契機ともなる。また「王政復古の大号令」には、「諸事神武創業之始ニ原キ」という復古思想とともに、「縉紳・武弁・堂上・地下之無別、至当之公議ヲ竭シ」という公議政体論が大きく導入されるのが注目をひく。事実討幕派として、理念的には、天皇制による政治権力の国家的集中をめざしながらも、現実には、公議政体路線をも十分視野に収めた「諸藩連合」組織に権力主体をおく体制づくりと妥協せねばならなかったのである。
 ところで、慶喜の「辞官・納地」を求めるための直接交渉を、徳川慶勝とともに引き受けた春嶽の立場を考えると、慶喜が臨む京都二条城の、まさに「一戦して薩藩に報いんと、殆ど狂せるが如く、叱咤・慷慨、殺気天を衝く」(『徳川慶喜公伝』)というきわめて険悪な情勢と、軍勢が続々と集結して意気軒昂な京都御所との間には、激突寸前の状況にあったが、春嶽はその手記『逸事史補』のなかで、つぎのように述べている。二条城の景況ハ、二条城の大手門内、門外、兵隊羅列し、剣筒を左右より出し、今にも放発の事如何哉と存候。九日以来ハ日々参内し、或は二条城へ参ル。実ニ二条城ノ形勢可畏。今にも剣にて突殺さるゝやに覚申候。二条城ヘ参リ九日以後也。慶喜公云ク、春嶽毎々登城は忝存候、乍併、御承知の程は不存候ヘ共、春嶽ハ、徳川家に心と力を尽さすして、御所の方ノ取持をスルナリと、諸役人より下々迄取沙汰いたし候間、殿中及城中御歩行、いかにも気遣敷存候間、殿中ハ坊主(表)二三人も、相付可申と懇話故、段々思召の程は難有奉存候ヘ共、殺サレル時ハいつたか不知、坊主ノ二三人居ても役に立申さぬ事故、御断り申候と答フ。最早死ヲ極メ候事故、心丈夫にいつ方もあるき居り申候。是も此時の様子を見るの一端といふへし。
 以上のような春嶽自身の述懐からもうかがえるが、朝廷側からは、彼が慶喜のために力尽して内通するのではないかとの疑念をもたれ、一方、旧幕府側からは、春嶽が徳川家に尽さずに朝廷に味方するものと非難されることは、それがそのまま、福井藩のはなはだ苦しい政治的立場を物語る。しかも、同藩と尾張藩を除いては、新政府と旧幕府側との連絡・調停役を担えるような藩は、ほかに見出せないのである。そうした状況下で春嶽がもっとも危惧したのは、大がかりな内戦をひき起こすことであった。ところが一触即発の段階で、慶喜が春嶽らの意見をいれて、十二日、松平容保・桑名藩主松平定敬・老中板倉勝静らを従え二条城を出て、翌十三日に大坂城に移ったため、内戦の危機はいったんは免れたのである。
写真003 松平慶永議定職辞令

写真3 松平慶永議定職辞令

写真004 松平慶永(春嶽)

写真4 松平慶永(春嶽)

 しかし大坂城内では、依然として新政府の処置に対する不満や非難がうずをまいていたが、春嶽は慶勝とともに旧幕府側に自重を求めたり、新政府との間の仲介の労をとるなど、極力内戦の勃発を避けることにつとめた。つまり福井藩の立場からは、維新の変革を極力公議政体路線に沿って、漸進的かつ平和裡に実現しようとしたわけで、こうして同藩はじめ土佐・尾張両藩による画策で、公議政体派が着々と地歩を固めていった。「納地」については、新政府も、慶喜に対する「領地返上」の語を削除し、「御政務用途の分、領地の内より取調の上、天下の公論を以て御確定」の方針に改めた(『復古記』)。このことは、徳川家の徹底的な粉砕をめざす西郷隆盛ら旧武力討幕派には黙視できないところで、彼らは巧みに旧幕府側への挑発工作を進め、ついにそれが効を奏して、翌四年一月三日、旧幕府側から戊辰戦争をひき起こさせることとなった。
 春嶽は翌四日、藩士奈良元作に書を託して、国許に鳥羽・伏見の戦乱を知らせたが、五日および六日付の福井藩主茂昭あての書簡では、「三日已来之景況却而一大変遷、危急存亡在眼前、天慶・応仁之喪乱今日ニ目撃す」(五日付)と述べ、さらに「方今之形勢不容易次第、干戈頻動、皇国之安危ハ勿論宗家之存亡此秋ニ迫り、実ニ苦心難堪日夜悩慮之至ニ候」(六日付)と大いに慨嘆する(越葵文庫)。
 福井藩の立場としては、幕末維新期を通じて、もっとも深刻な事態に見舞われたわけである。つまり内戦の勃発は、かねて懸命に追求してきた公議政体路線の挫折を意味するものであり、また一方において、幕末の第二次征長の際、同藩が真っ向から反対したときの事情と同じく、国内で政治的・社会的な大混乱をまねく情勢を醸し出すと危惧されたからであった。



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