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 第一章 近代福井の夜明け
   第一節 明治維新と若越諸藩
    一 戊辰戦争と若越諸藩
      大野藩の箱館戦争
 戊辰戦争期の最終段階の箱館戦争に、慶応四年(一八六八)九月七日、大野藩は京都軍務官より出兵を命じられた。旧幕府海軍の副総裁榎本武揚が主導する反政府勢力の征討作戦に参加するため、同藩ではただちに出兵準備に取りかかった。総督に家老の中村雅之進、副総督に岡気一を任じ、出動部隊を四小隊に編成し、総勢一五〇人の陣容であった(「良英函館出陣記」『奥越史料』九)。大野藩に出兵命令が下ったのは、幕末に蝦夷地開拓の先頭に立ったこと、洋式軍制による強兵策に取り組んだこと、藩主土井利恒が箱館裁判所副総督に任じられたことなどによるとみられる。
写真002 「良英函館出陣記」挿図

写真2 「良英函館出陣記」挿図

 九月二十五日、大野城下を出発して敦賀にいたり、十月八日、英船モナ号に乗船して、同月二十日、箱館に到着した。そして早くも二十二日には戦闘に加わったが、政府軍全般の形勢は振わず、いったん青森に退いた。翌二年正月を青森で迎え、進撃態勢を整えたが、大野藩兵は、松前・津軽・長州・徳山などの諸藩とともに、松前口の上陸を命じられた。四月五日、米船イヤンシー号に乗船して、九日、江差沖に近づき、榎本軍の発砲にも応じずに北行し、乙部村に着岸、激しい弾雨のなかで、果敢な上陸作戦を決行した。ついで江差に向けて進撃して大いに戦果をあげた。さらに同月二十日の木古内の戦いでは、大野藩兵は一人の犠牲者も出さずに榎本軍を退却させ、二十二日には政府軍全隊が木古内に集結した。
 一方、榎本軍は矢不来河原まで戦線をひいたので、大野藩兵は二十九日、諸藩兵の来集を待って、政府軍海軍の砲撃の支援のもとに、猛攻を加えた。「矢不来ト申所ハ、敵随一之要害ニ而、官軍方ニ而モ兼々心痛之場也」(「箱館出張中諸用記」『奥越史料』一)といわれただけに激しい戦闘が展開された。しかし、頑強に守備していた榎本軍も、官軍の猛攻の前についに総退却せざるをえなかった。榎本軍の損害は大きかったが、大野藩兵も戦死六人、重軽傷一八人の犠牲者を出したのである。
 こうして、榎本軍の根拠地の五稜郭の包囲態勢をいよいよ固めるなかで、薩軍による恭順あっせんが続けられたが、榎本軍は容易に降伏しなかった。七重浜で待機していた大野藩兵は、五月十六日、包囲攻撃作戦に参加し、郭内に突入して激闘を繰り広げた。翌十七日早朝、榎本武揚・大鳥圭介らの四首脳が馬で出郭したので、大野藩兵(第三小隊)は、その護衛を命じられ、亀田村端まで護送した。ついで同村八幡祠で、政府軍参謀黒田清隆らに面接し、五稜郭を政府軍に引き渡し、降伏することを約した。その際大野藩兵は終始警護にあたり、会議終了後四将を郭外まで送った。
 箱館戦争後、大野藩兵はいったん東京に立ち寄り、神田橋筋違の藩邸で、藩主利恒の閲兵をうけたのち、六月八日、東京を発ち、二十三日に大野に帰藩した。出征兵のうち戦死した一一人は、その後函館の招魂社に祭られ、また大野では、篠座神社境内に招魂社と慰霊碑が立てられ
た。



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