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 第一章 近代福井の夜明け
   第一節 明治維新と若越諸藩
    一 戊辰戦争と若越諸藩
      戊辰戦争への出兵
 戊辰戦争の当初から、旧幕軍が敗退の一途をたどるなかで、慶喜はついに、陸軍総裁勝海舟や会計総裁大久保忠寛らの主張をいれて、二月十二日には江戸城から上野寛永寺に移り、恭順の意をあらわした。このとき前福井藩主松平慶永(春嶽)は、新政府の要人岩倉具視や天皇側近の実力者中山忠能らに積極的に働きかけるなど、内戦阻止の懸命な努力を続けた。
 春嶽は同月十九日、政府に対する建白書のなかで、慶喜が伏罪謹慎しているのに、あえて東征を進めるならば、旧幕臣のうち過激なものは憤激のあまり、「幾千人一心」となるのに対して、官軍が諸藩の入り交った軍隊で「百人百心、千人千心」の情況では、勝敗ははかり知れないものがある。また、こうした内戦は「天下人心の向背」にもかかわることで、速やかに東征軍の進撃を停止されたいと力説した(『戊辰日記』)。たしかに、内乱突入の直後から摂津・播磨両国に一揆が発生し、三月ころまで不穏な情勢が続いた。また二月から三月にかけて、信州から上野・武蔵一帯に大がかりな一揆や騒動が続発するなど、内戦にともなう民衆蜂起の激化する険悪な情勢のもとで、勝海舟らの懸命な努力や西郷隆盛らの決断により、四月一日に政府軍による江戸城の無血接収がなされた。
 ところがその後、旧幕府主戦派の策動と奥羽・北越諸藩の反政府的な動きから、五月三日、仙台藩を盟主とする「奥羽越列藩同盟」が成立し、政府軍に対抗する挙に出た。そこで政府は、本格的な征討を進めることになる。こうした段階で、同月二十二日、福井藩も、会津征討のため越後口への出兵を命じられた(「家譜」)。従来同藩では、春嶽を先頭に、政府軍の東征に強く反対してきたが、奥州・北越の諸藩が同盟を結成して政府に反抗する動きに対しては、絶対に容赦はできないとして、やむなく出兵の準備に着手した。
 藩主茂昭は、持病の脚気のため治癒次第出陣することとし、軍事総管に酒井孫四郎、参謀に堤五市郎、軍監には市村勘右衛門を任じ、六月二十四日から二十六日にかけて、大砲隊・大隊二隊・遊撃隊など総勢一二〇〇人を出動させる。さらに七月四日、茂昭の名代として家老本多興之輔(副元)が六小隊を率いるなど、藩の軍事力のかなりの部分を投入した(「会津征討出兵記」)。
 まず北越の雄藩である長岡藩に対する征討作戦に加わり、長岡付近で激闘して、さらに北上して村上城を陥落させた。ついで出羽に入り、一軍は庄内・会津両藩に向かって転戦したが、とりわけ、出羽・越後の境の要害の地、鼠が関口での戦闘は激しかった(「会津征討出陣公私留」)。
 こうして九月十四日には、頑強に抵抗した会津藩もついに降服し、それと相前後して、米沢・仙台・庄内などの諸藩も帰順し、約半年に及んだ東北戦争もようやく収まった。そこで福井藩兵は会津に駐留の六小隊を除き、同年十一月に帰藩する(「会津征討出陣公私留」)。越後口での同藩の兵員総数二〇三四人のうち戦死一〇人・負傷三二人にのぼった。薩摩藩(二二四五人)の戦死一五八人・負傷三〇八人などに比べると、人的損害は少ない方であった(『復古記』)。
 一方、小浜藩では、六月十八日再度越後口への出兵を命じられた。同藩兵は、会津征討越後口総督仁和寺宮のもとに属して、総督とは二十七日に敦賀で合流した。総督は、七月七日に海路蒸気船で越後今町に向けて出発したが、小浜藩兵は、同月五日、歩兵四小隊・野砲二門の総勢三〇〇余人の編成で、陸路敦賀を出発し、同月十七日、柏崎に着陣、長岡藩との戦闘に参加した。ついで会津に向かったが、到着以前に会津城が落ちたので、十月には帰藩することができた。なお、越後口への出動総数三四八人のうち戦死一人、負傷三人と、人的被害は軽微なものであった(『復古記』)。
 その他の若越諸藩では、直接戦争への出兵は命じられず、たとえば丸岡藩の場合、当初京都での御門警衛の任にあたり、ついで八月より京都鞍馬口の警備についた。さらに十一月には、隊員一〇〇人が敦賀の本妙寺に陣をとり、小浜・鯖江・勝山の諸藩とともに、敦賀湾を警備したが、翌年二月にはいっさいの任務を解除されている(「有馬家世譜」)。



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