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 第一章 近代福井の夜明け
   第一節 明治維新と若越諸藩
    一 戊辰戦争と若越諸藩
      北陸道鎮撫使の下向
 慶応四年(一八六八)一月三日、戊辰戦争が勃発し、徳川慶喜が大坂から江戸に向かった段階で、政府軍は追討令を発する。そして、全国の諸藩を朝廷に従わせるための鎮撫総督を各道ごとに任命したが、同月九日、北陸道鎮撫総督には高倉永外字、副総督には四条隆平の両公卿があたることになる。この際小浜藩の前藩主酒井忠禄が、北陸道先鋒の重任を担った。
 小浜藩は、戊辰戦争の当初、旧幕府側に加担したことにより、忠禄はその弁明と謝罪のため十二日に上京した。朝廷から、旧幕府軍の追討・鎮撫のため、総督のもとで北陸道先鋒となるよう命じられたので、十五日にその請書を提出したのである(「酒井家編年史料稿本」)。
 一方、高倉総督は、同十五日若越の七藩主を含めた北陸七か国二一名の諸藩主に対して、「今般、王政御復古ニ付テハ、王事ニ勤労可致ハ勿論之事ニ候得共、当今之騒擾ニ付、方向難定、人心疑惑可致折柄ニ候得ハ、尚存慮之次第可及尋問、御沙汰候事」と、朝廷の命に帰順するよう勅書を出した(『復古記』)。
写真001 「北陸道鎮撫勅使御先峰一件」

写真1 「北陸道鎮撫勅使御先峰一件」

 一月二十日に京都を出発し、同月二十五日に小浜に入り、徳川慶喜追討の「大号令」・「農商布告」・「制札」の三件を小浜藩の重役に示し、朝廷の命に従う旨の請書を出させた。そして二月五日、高倉総督・四条副総督は、小浜・広島両藩兵を率いて小浜を発ち、七日、敦賀の陣屋に入った。九日には敦賀沿岸の砲台を巡検し、気比社に参詣したが、十一日、北陸道の諸藩に命じて、勅使一行への軍需物資の供給や、その運搬のための人馬の準備を行わせた(『復古記』)。
 鎮撫使一行は、十三日に敦賀を出発して十五日に福井に到着、西本願寺掛所に入ったが、二十日には佐賀藩兵も加わった。一行は二十八日まで滞在したが、その間越前の諸藩主に対して、小浜藩の場合と同じく、朝命に服する三件の誓約の請書を提出させた。また旧幕府領の調査を命じ、福井藩には、越前国内の代官支配地の取締りを命じたのである(「家譜」)。なお多数の随行者が、福井で約二週間滞在したので、城下の町方はにわかに活気づいたとみえ、大野町近在の一庄屋が、「福井町之繁昌且町家之商も有之、尤金ニ而之商ニ而、町人悦候由、越前国諸之札座金出不申、金払底之所故如此ニ候」と伝えるのが注目をひく(資10 一―六)。ついで、二十八日に福井を発して金津にいたり、翌二十九日、加賀の大聖寺に向かった。
 なお北上した小浜藩兵は、越後高田から信濃に入り、四月には江戸に到着した。江戸では各所の警備にあたり、五月に入り越後出兵を命じられたため、品川を発ち海路越後今町港(上越市)に赴いたが、まもなく帰藩を許され、同月十一日、小浜に凱旋した(「北陸道鎮撫勅使御先鋒一件」)。



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