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監修のことば
 『福井県史 通史編5 近現代一』は、明治新政府成立より大正期を経て昭和初年までを叙述する。本巻において特色ある事項を、諸分野より試みに若干取り上げて紹介しよう。
 政治・制度に関して、福井県誕生の問題がある。明治十四年二月現在の福井県成立までの県域の分合はめまぐるしく、その過程において嶺南・嶺北とよぶ地域区分ができあがった契機も生じた。明治六年一月敦賀県は足羽県を合併した。足羽県は同四年十二月福井県を改名し、足羽・吉田・丹生・坂井・大野の五郡が、敦賀県は若狭三郡と今立・南条・敦賀の三郡が、所属していた。同九年八月に越前七郡は石川県に、敦賀郡・若狭三郡は滋賀県に分割合併された。石川県政は混乱を招き、由緒や風土・民情の異なる越前の分割が建言されたが、滋賀県の場合は格別の違和感も生せず、現在地域の県設置後にも滋賀県への復帰運動さへみられた。明治・大正期の県政・政党の動向を、福井県の生んだ議会政治家で昭和四年三月七九歳の生涯を閉じた杉田定一の経歴行動を通してうかがう。明治十二年七月郷里坂井郡波寄村に自郷社を結成し、自由民権運動の狼煙をあげた。それは地租改正反対運動にもつながり、国会開設請願運動への展開ともなった。請願運動が全国に波動するにあたり福井県では杉田を中心に展開する。明治十五年暮に南越自由党誕生を機に民党勢力の結集を企図するが好結末を得ず、彼の関心は中央の動向に向うところとなる。若越では明治二十二年三月南越倶楽部結成され、杉田の中央の活動の後援会的役割をも持ち、翌年七月の第一回総選挙へ対応するものでもあった。
 総選挙に杉田は第二区より出て、県の当選者四人はみな愛国公党所属で、この党は同年八月解散し、同月結成された立憲自由党に四人は所属した。二十五年八月県下に南越自由会設立されて杉田中心に新に政治勢力が登場、翌年九月には自由党県支部が発足した。三十一年十月自由党は進歩党と合同して憲政党結成され、三十三年九月憲政党解散し立憲政友会結成に加盟し、十月には県支部が発会し県政界は政友会一色となった。その後政友会の動揺あり県政にも波及している。大正元年十二月憲政擁護の第一回大会東京に開催され、杉田は政友会長老として座長をつとめた。大正七年九月原敬政友会内閣成立のころ、福井県会は政友会優勢で、同九年五月第一四回総選挙に県では政友会五人、憲政会一人当選し、十二年九月の県会議員選挙の当選者は政友会が九割を占めた。同年十二月清浦奎吾内閣成立し第二次護憲運動がおこり、政友会分裂して杉田ら五人は政友本党へ走った。昭和二年五月政友会に復帰し杉田は顧問となった。県政界には種々の影響を与えたが、同年九月の普選制による県会議員選挙には政友会が多数を占めた。
 宗教関係であるが社会的動向の問題でもある明治初年の護法一揆がある。明治新政府指導の神仏分離運動の展開は廃仏毀釈の風潮を招いた。神社制度整備が進められる他方において、仏堂・仏像などの破壊処分もみられた。全国各地の真宗地帯で僧侶・門徒層の護法一揆が続発する。敦賀県でも明治六年三月大野・今立・坂井の三郡下に護法一揆が勃発した。一揆は真宗信仰の擁護を要求しながら、明治新政治下の動向、旧来の風習生活の一変を進める開化風潮への反動的要求、また地域支配の新政策への反発などを含めていた。一揆には真宗寺院僧侶、また門徒層として農村では一部上層衆も入り、在方町では職人・中小商人も参加した世直し型の性格をも帯びていたのである。
 福井県の産業として顕著なものに絹織物がある。福井では幕末期に奉書紬生産があったが、明治二十年ころには羽二重生産がはじまる。輸出向羽二重を主とする生産は、二十年代半ば急発展を遂げ、郡部にまで広がった。日露戦争後にその生産は停滞期を迎えたが、大正二年には明治期の最高額を超えた。明治四十年以降国産力織機が福井市に導入され、さらに郡部へも急速に広がり、大正二年には手織機数を超えた。力織機化は零細機業を没落させて工場制工業へ と進展させた。大正四年半ばより同九年はじめにかけ、生糸・絹織物の輸出産業は躍進を遂げた。絹職物輸出において、大戦勃発まで福井県を最大産地とする羽二重が圧倒的比重を占めたが、大正六年ころより比重は低下しはじめ、絹紬や縮緬の輸出が伸びはじめた。同九年はじめまで好景気続いたが、やがて恐慌がおこり、絹織物などの輸出産業に大きな打撃を与える。なお、同十五年ころには人絹時代の到来が予想されてくる。
 交通上画期的なものとして北陸線開通をあげえよう。明治十七年四月に金ケ崎・長浜間の全線開通し、同二十二年には東海道線も全通して接続し、敦賀は当時開発を重要政策とした北海道と関西・中京の経済力を結ぶ扇の要たる位置を占めた。明治二十五年六月、ロシアの極東進出が急を告げるなかで鉄道敷設法が成立し、軍事的配慮優先され第一期予定六線に、敦賀・富山間、本線より分岐し七尾にいたる北陸線が含まれた。翌年四月着工、二十九年七月敦賀・福 井間開通、三十二年三月富山まで全線開通した。北陸線開通は福井県の産業発展の一つの導火線ともなった。福井と羽二重輸出港また生糸の移入先の横浜間の輸送日数・運賃の低減など、その一例であろう。
 さて『資料編10』は一九八三年三月刊で、明治初年より三十年前後まで、『資料編11』は一九八五年三月刊で、そのあとを受けて大正期を経て昭和初年まで、政治・社会と産業・経済に分け資料を収載しているが、本巻は通史としてほぼこれに対応しているといえよう。しかし資料編刊行ののち、さらに公文書館・公私立の図書館・諸大学蔵の資料等について鋭意、調査蒐集につとめて考究し、本巻を編成している。執筆者は一四名である。福井県の誕生以下前述したところは、本巻叙述のなかより恣意的に若干の事項を取り上げ、簡短にこれを紹介したまでである。本巻においては、もとより右の事項をも含めて、諸分野諸事項にわたり深く考究し精密詳細に記述されており、また新に紹介された事項・資料も少なくない。
 擱筆するにあたり、執筆・編集・刊行を担当された諸氏に厚く敬意を表し、資料の採集、また提供に、援助・協力を賜った各位に深く感謝を捧げるしだいである。
  平成六年十一月
    小葉田淳



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