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 第六章 幕末の動向
   第四節 幕末の民衆
    四 外国人の相次ぐ来訪
      イギリス公使来る
 翌慶応三年四月十七日、イギリス公使ハリー・パークスの一行が陸路で敦賀に入った。一行は外国人六人、付添の幕府役人七〇人とかなりの人数であったが、その中に外国人女性が一人いた。いまその名を知ることはできないが、恐らく越前・若狭に来た最初のヨーロッパ女性であろう。
 パークスは、大坂で幕府から京都入りを断念する替わりに敦賀行の許可を強引に取り付け(『続通信全覧』)、同月十五日に大坂を発ち、伏見、大津、そして西近江路を通って越前に入り、十七日、道口を経て、射場町から敦賀の町に入り、御影堂前町・唐仁橋町と町の中央を浜近くまで行き、そこで左に折れて、今橋を渡り、茶問屋が並ぶ茶町を通り過ぎ、宿所となった永建寺に着いた。翌日十八日には天筒山に登り敦賀を一望し、十九日に敦賀を発ち、刀根から柳ケ瀬を通り、今度は東近江路を経て大坂と戻った(平川幹夫家文書、『間部家文書』)。
 ところで、イギリス公使パークスはなんのために敦賀を訪れたのだろうか。四月十三日に幕府の大坂表外国方から鞠山藩宛に出された触には、「敦賀表為一見」とのみ記されているが、当時京都にあった前福井藩主松平春嶽は、幕府の使者にパークスの敦賀行の目的について「此節敦賀を開港せらるへき御詮議にても有る事なりや」と問いただしたところ、その使者は「敦賀開港等の詮議あるにあらず」と答えている(「続再夢紀事」)。こうした幕府の使者の返答にもかかわらず、パークスが慶応三年六月二十一日付で本国イギリスの外相スタンレーに宛てた報告書で敦賀は開港場としてはふさわしくなく、七尾か新潟が適していると報告している。パークスの敦賀視察の目的は、敦賀が開港場として適しているか否かをみることにあったのである(『敦賀市史』通史編上巻)。



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