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 第六章 幕末の動向
   第四節 幕末の民衆
    四 外国人の相次ぐ来訪
      「異国人」と民衆
 慶応三年五月二十二日、北海筋の測量に当たっていたイギリス船が小浜に入津した。小浜の人々にとっては、開国後初めてのヨーロッパ人であった。川崎町の浜辺に上陸したイギリス人三人は、重田卯右衛門のところで休息し、大津町・本町・瀬木町を通り新町の浜から本船に戻っていった。イギリス船が入津するかもしれないとの情報は、五月初めに「此度英国人北海筋測量ニ付、近日宮津表へ入津之由……、御領分海辺へ茂着岸之程難斗ニ付、若入舟候共動揺致間敷候、此段為心得申談候」と領内に触れ出され注意が喚起されていた。そのため、町ではあまり大きな混乱はなかったようであるが(団嘉次家文書)、古河嘉太夫のその日の日記には「イキリス船入津……人々見物多」と、イギリスの船と人を見ようとする多くの人たちのあったことを記している(古河家文書)。
 この船は、パークスの属官アストンが指揮したイギリス軍艦サーペント号であり、日本海側での開港場の適地を調査することがその目的であり、小浜に入津する前に丹後宮津・田辺に寄港し、小浜を出たあと三国に立ち寄り(「内田家記録」)、その後、能登七尾、越後新潟、出羽酒田を経て、六月十五日に横浜に戻った。先にあげたパークスの母国への報告は、この調査の結果をふまえたものである。
 同じ年の七月十七日、能登七尾から大坂へと陸路をとる外国人三人の福井城下通行が触れ出され、見物は店内からとし、往来で立ち止まったりしてはいけないと申し渡された(宮川家文書)。この一行は、先のイギリス公使パークスの名代書記官ミツトフォード、通弁官アーネスト・サトウ、南京人リン・フーの三人で、十八日に加賀から越前に入った。福井藩からは目付が出迎え、宿舎や食事は行き届いたものであったが、その応対が冷淡であったことにサトウは憤慨している。この日泊まった金津では全町が色提灯で明るく照らされ、大通りには見物人が大勢集まった。十九日には福井へ入った一行を、晴着を着た人々が列を作って店先に並んで見物した。この様子をサトウは「あたかも席料を出してイギリス議会開院式に臨御する女王を拝観する時の光景に似ていた」と記している。昼を過ぎて、福井を発ち、鯖江城下を通過するが、藩では警衛のために「異人」の左右へ足軽八人ずつを付け、城の表門には幕を張り、与頭を詰めさせ、かつ番人を増し、さらに上下喰違番所にも幕を張り、木戸番の足軽を二人ずつ置き、巡見使など幕府役人の通行時と同様の扱いをした(『間部家文書』)。夕方、群衆が迎える中を、この日の宿所である府中に着いた。宿舎では一行を上段の間ではなく、畳に渋紙の敷いてある別の部屋に通した。これにサトウは大いに腹を立てるが、「われわれが日本の作法や習慣を知らずに、靴で上へ上がるだろうと考えての不愉快な予防策であったとも考えられる」と気を取り直している。二十日朝、府中を発った一行は栃木峠を近江へと越えた(『一外交官の見た明治維新』)。通行にすぎないとはいえ、小浜・敦賀といった湊だけでなく内陸にも外国人の姿が見られたことは、民衆にとってはとてつもなく大きな変化であった。
写真170 アメリカ人通行の記事

写真170 アメリカ人通行の記事

 同じ年、アメリカ船が敦賀に入港した。この船は、イギリス船同様、日本海側での開港場選定のためのもので、アメリカ公使ファルケンバーグが自ら乗り込んだ軍艦と思われる。この船が三国に寄港したかは不明であるが、足羽郡種池村の庄屋の慶応三年五月二十七日の日記に次のような記事がみられる。一昨日廿五日、次右衛門ニ而風聞、アメリカ人永平寺参詣トテ三国湊より足羽川江入込候処、当月廿四日之事なれ者、俄雨ニ而、三国近在之下野与申所ニ止宿致候由之事有之候、尤実説也、とあり、この時にアメリカ船が三国に寄港したことは十分に考えられる。そしてアメリカ人の永平寺参詣が実際になされたとすれば、敦賀や三国といった湊町の人たちだけでなく、より多くの人々がそれを見たはずであり、彼等にとっては、恐らく初めて見る外国人であったと思われる。そして「実説也」と強調しているところに、日記の主が見れなかったことを残念がっていると同時に、外国人への緊張を読み取ることができよう。
 翌明治元年(一八六八)五月十九日、三国の商人であり福井藩の産物会所奉行でもあった内田周平のもとに会所頭取の能勢角太夫から一通の用状が届いた。そこには、福井藩と関係の深いアメリカ人ローバトという人物が、一両日中に敦賀から三国に蒸気船でやってくるので、「御難題」ながら宿を頼みたい、また自分の宿も「異人」と「同臥」でもよいが別のところを算段してもらうことはできまいか、との用向きであった。内田家では、「異人の宿等ハ迚モ勤兼候」ということで、出役の役人に近頃「老人少々不快」であるとの理由をつけて宿を断り、その替わり立ち寄りはかまわないと返答した。二十一日、内田家では朝のうちに座敷の掃除をし「異人」を待ち受けた。午後四時頃汽船が着き、「異人」二人が上陸し、内田家へ立ち寄った。内田家では、菓子・びわ・すももを出し、お茶でもてなした。そして卵二〇〇個を篭に入れてローバトに贈った。その後、「異人」は森与兵衛の家へと向かった。「異人」への一つの対応として興味がもたれる(「内田家記録」)。



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