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 第六章 幕末の動向
   第四節 幕末の民衆
    四 外国人の相次ぐ来訪
      「異国人」と越前・若狭
 嘉永三年(一八五〇)四月に小浜藩が領内へ出した触に、「きたなき異国人に神国をけかさ(汚れ)せじと相励ミ候」(熊川区有文書)と位置づけられた「異国人」、開国後の文久三年(一八六三)に異国船手当てについての触のなかで討ち取る対象とされた「異国人」が(高橋正尚家文書)、そのわずか二、三年後に越前・若狭に相次いで上陸する。
 越前・若狭に外国人が最初に上陸したのは、慶応二年(一八六六)のことであると思われる。慶応二年九月十五日、イギリス船が敦賀の常宮沖に突如として現れ、停船した。これに対し、こうした事態が生じた時のために準備された兵粮米が、それを預っていた家々から運び出され、敦賀町奉行を先頭に警固の体制がとられた。緊張した一瞬である。しかし、翌日、上陸したイギリス人たちは、警固の役人たちに挨拶をしたあと、町奉行所に伴われた。このイギリス人の敦賀寄港は、沖合でしけに会い帆綱や梶を傷めその修理のためのものであり、また米五俵・鶏一〇羽・卵・ネギ・牛・小間物などを入手するためであった。米・鶏・卵・ネギ・小間物等は準備され渡されたが、牛は農業用のもので老牛ばかりであるとの理由をつけて調達を断り、品物の代金を受け取った(大和田みえ子家文書)。この一連の行動のなかに、いっきに緊張感の高まった様子とともに、人々が持っていた牛を食用にすることへの嫌悪感を読み取ることができる。



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