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 第六章 幕末の動向
   第四節 幕末の民衆
    三 越前・若狭の世直し状況
      西田中・田中村の一揆
 慶応二年(一八六六)五月二十六日の夜、幸若領の丹生郡西田中村と三河西尾藩領の田中村で打毀しがあった。打ち毀されたのは、西田中村の茂兵衛と田中村の伝右衛門の二軒である。米商であった茂兵衛の家では、「居家・道具・戸障子」が残らず踏み折られ、商売物の木綿類が引き裂かれた。一揆勢は、茂兵衛を打ち毀したあと、同じ村の藤兵衛等二軒の家で「酒肴共喰荒シ」たのち、田中村で百姓米を商っていた伝右衛門の宅へ向かい、「居家・戸障子」を踏み折り、諸道具も多分に打ち毀し「火焼」にした。打毀しは、「蓑虫同様」に「千人斗」が加わった。この一揆の報告を六月一日に受けた大野藩の記録には「近村弐拾ケ村程一揆」とあるように、かなりの広がりをもつものであった(千秋勝稔家文書、斎藤寿々子家文書)。
 この一揆に対し、西尾藩の天王陣屋から石塚伝吾・金子勇之助・石井竹之助の三人の役人が出張するが、そこで「乱暴発頭人」とされた幕府領気比庄村の金右衛門が、役人に手向かったとして切り殺された。また、近隣に領地をもつ鯖江藩へも天王陣屋から連絡があり、役人が出向き、最寄りの村々で問いただしたところ、「又々可寄集様子ニ風聞有之段」を申し立てたので、「支配所村々小前共心得違無之様厳敷申渡」した。さらに鯖江藩の郡方の役人は、藩庁に対し「右様気立居候折柄ニ付何時可騒立も難斗」いので、その節は藩の軍事力の発動を藩に求め同意を取り付けている(千秋勝稔家文書、『間部家文書』)。
 この打毀しの理由は、「風聞」では、当時米価が四五〇匁と高騰するなか、伝右衛門は他村より米一〇〇俵を一俵三八〇匁くらいで購入し、それを四六〇匁くらいで売り払ったうえに、日頃から気請も良くない米商いをしていたことで憎まれており、また茂兵衛も日頃の商いにおいてもはなはだ気請が悪く、その上米を買い込んでいたためだとされている(千秋勝稔家文書、内藤庄左衛門家文書)。



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