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 第六章 幕末の動向
   第四節 幕末の民衆
    三 越前・若狭の世直し状況
      若狭でのお救い要求
 万延元年(一八六〇)になると、物価騰貴はいっそう明確なものとなる。そして巷では、米価騰貴の原因は外国との交易で米が外に出ているからだと噂された。その後も米の値段は上昇し、全国各地で一揆や打毀しが頻発するようになった。
 若狭でもそうした動きがみられた。万延元年五月、遠敷郡田村の百姓次右衛門等四人が名田庄の村々の難渋人に呼びかけ、薬師堂に集まり値下げ米を願う談合を行い、上田村の庄屋宅まで押しかける事件があった。また十月には大飯郡青郷の村々でも難渋人たちが、麦・稗の拝借を企図し高浜に繰り出すよう廻文を村々に回したが、届けがあって和田奉行に八、九人が捕えられた。このように、若狭では一揆・打毀しが起こる寸前の状況にあった(団嘉次家文書)。
 こうした状況に対し、藩は、九月になると町人から米を出させ、本境寺ついで心光寺において施粥を行い、十月に入ると米・大豆だけでなく穀物すべての他国出しを禁止し、十一月には米屋仲間の所持する米が調査された。ちなみに、この時米屋仲間五七軒で所持していた米・雑穀の量は二〇三五俵に過ぎなかった。同じ十一月、施粥を受けている極難渋人以外の難渋人を対象に、風呂小路に設けられた米会所で値下げ米が銀一匁につき七合の値段で売り出され、難渋人より上の者には無利息で翌年の二、三月に返済する約束で、米一俵ずつが銀七六匁の相場で貸し渡された。さらに、十二月には所司代であった藩主忠義に役知二万石が加増され、そのうち三〇〇〇両が領内へ下賜された。これもまた、こうした状況への対応の一つとみることができよう(団嘉次家文書、藤田潤治家文書)。
 同じ年、大野でも米価を初め諸品の高騰がみられるなか、五月二十七日の朝、常夜灯の石垣に匿名の願書が貼られた(斎藤寿々子家文書)。
写真169 米価高騰についての張紙

写真169 米価高騰についての張紙

      以上書御願奉上候
 一、きんねん(近年)打つゝき米上作之処、米しやうせいき(諸品カ)高直ニ付、かろ(軽)きものなんき(難儀)かつ(飢)ミにおよひ候事、御上さまの奉行のミな(皆)なすわさ(業)、土井能登守(利忠)家来けろう(下郎)しわざ(仕業)を諸国むつはら(専)大ひやうばん(評判)ニ御座候、この奉行役人衆中を、とび道具并ニすき(鋤)・くわ(鍬)ニて打とるべし、この上聞とゞけもなく候ハゝ、百性町人ニてのこ(残)らす打とるべし、その上国かへ(替)いたし候間、左様心い(得)べし、
   これをきゝたまへ、家中のげろう中
 この匿名の願書は、米価高騰に無策な藩の役人を厳しく弾劾し、要求が入れられなければ、「とび道具并ニすき・くわニて打ちとるべし」というように、一揆をもって要求を貫徹することを主張している。この張紙が直接の要因となったかは明らかではないが、藩は七月になって町方の困窮人の調査を行い、極困窮人三三〇人には大人一人玄米三升ずつを与え、並みの困窮人六五七人には米七一俵余を貸し与えた(斎藤寿々子家文書)。こうした藩の対策にもかかわらず、八月には「上之庄」のあたりから「蓑虫」が起こるという噂が広がり、藩はその押さえ込みに躍起となっている(布川源兵衛家文書)。



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