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 第六章 幕末の動向
   第四節 幕末の民衆
    三 越前・若狭の世直し状況
      安政五年のコレラ
 安政五年(一八五八)七月、将軍家定の死、アメリカを初めとする欧米列強の通商要求、諸大名の相次ぐ上京などを耳にした小浜の一町人が自らの覚帳に「諸国之さうどう(騒動)只日本之おとろへ(衰え)天下替り目か」と書き記したように、民衆も世の中が大きく動き出したことを感じ始めていた(藤田潤治家文書)。
 翌安政六年七月、各地で当時「ころり」とも「暴瀉病」とも呼ばれたコレラが大流行する。小浜ではこの流行の噂を聞き町中が大騒ぎとなった。病除けを願って人々は、相次いで丹後の大川様へ参り、その分祗を借り受けてきて町々で宮を建てそれを祭った。
 一方藩は、八月七日、病の流行のため世間が陰気となっているので町内で大太鼓などをたたき賑々しくするよう命じた。藩が許可したその晩より、町では鉦・太鼓・三味線などで賑わい、また八日から十日まで八幡宮で祈外字があり、おびただしい参詣人が繰り出した。また十三日から十五日の間は八幡宮の放生会と重なりいっそう賑わいを見せた。この後も、二十一、二日には遠敷の上下宮で悪病除けの祈外字が、二十四日から二十六日まで神宮寺で大般若転読による祈外字があり、八月から九月の初めにかけて「町中・西津・在方国中大さわぎ(騒ぎ)」となった(団嘉次家文書、藤田潤治家文書)。
 小浜の一町人は、この騒ぎをみて「何と云事か一向不分、病送りと云事か、ようき(陽気)ニ只さわくのか、上・被出仰候事故」大騒ぎとなっているとし、さらに「是迄病気もいろいろ流行有之候得とも、ケ様之事此度が始メ」と藩の対応に不審の目を向けている(藤田潤治家文書、古河家文書)。
 勝山でも安政六年八月頃からコレラが流行する。藩では、八月十一日にコレラ流行を討ち払うために辻々橋々で大砲を打つと触れ出し、その日のうちに大砲掛の武士が出役し、町年寄は羽織袴で、庄屋は羽織と股引で、郡町・袋田町・後町の三町の鳶組は残らず装束を来て出、大砲六台を引き回し、町の一〇か所で合計四一発を放った(松屋文書)。
 十三日には三町惣代の者が病気の蔓延することを防ぐために、町中の諸神社で疫除の祭と湯立とをすることを藩に願い出た。藩は、これを許可するとともに十四日・十五日の夜に挑灯を点すことも許可した。十五日は、興福寺でお供えの飯を諸人に施し、湯立が神明社から毘沙門社、薬師社、古神明社、白山堂と相次いで行われ、ついで山伏の威宝院が法螺貝を吹きながら、指添の者が御幣で町々を祓いながら郡町・袋田町・沢町・長淵町・後町を順に通っていった。それを迎えた町々では、鐘太鼓その他様々なもので囃し立て、賑々しく疫祓を行った。その夜、袋田町と沢町の間も板橋に張ることになった注連縄をめぐって両町の間で怪我人を出す騒動となるが、十七日に終夜の、十八日は半夜の挑灯が藩から認められ、十八日には神明社で湯立と相撲とが行われた。二十日には大蓮寺においてコレラ病除の祈外字があり、七日間の夜五ツ時(午後八時頃)まで挑灯を点すことが許された。なおこの時のコレラでの死者は、勝山の町だけで男三一人、女二一人、合計五二人にのぼった(松屋文書)。
 この時のコレラ流行に対しては、小浜や勝山と同じように、福井・鯖江・大野でも藩の積極的な「除病」への働きかけがみられるが(『続片聾記』、『間部家文書』、鈴木善左衛門家文書)、大野藩ではコレラへの処方として病院で調合した薬「回天散」の服用を勧めるとともに、魚類・豆腐・果物などを食べないよう命じるなど実質的な対応をしている点は他の藩にはみられないものである(宮澤秀和家文書)。
 こうした藩の働きかけは、「諸国之さうどう只日本之おとろへ天下替り目か」と意識しだした民衆、高騰を示し始めた物価、度重なる調達金の賦課、さらに開国による外国交易開始といったものへの不満と不安を募らせていた民衆が、このコレラ騒動を機にそれを領主に向けて爆発させないためにとった一つの方策であった。



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