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 第六章 幕末の動向
   第四節 幕末の民衆
    二 軍事動員される民衆
      「他国軍役」の忌避
 安房勝山藩野坂領にも農兵が設置された。当初は、勝山藩の「御陣屋御固メ」と「敦賀表海岸御手当」とを任務として郷組が結成された。これが慶応二年(一八六六)に銃隊組に再編成され、給方米一俵が与えられた。ところが、翌三年になって「御遠征」手当として領内に兵夫四八人が課された。村々では、「戦場御出陣」の兵夫と聞いて恐れをなし、銃隊組にしばらく兼帯するよう頼み込んだ。そしてその頼みを聞いてくれた銃隊組には、村々から「助力介抱」がなされた。ところが明治元年(一八六八)になって高掛かりの兵夫は廃止され、銃隊組に「御遠征御供」「他国軍役」を勤めるよう命じられた。それに対し銃隊組は、「御陣屋」と「敦賀表海岸」の固めが元来の役割であり、「御遠征」の供をすれば、「太切之御田地」を「守護」しえず、年貢の収納にも障りがでるといい、また昨年命じられた兵夫を兼帯したのは、兵夫が「御領分一同御高掛り」であったからであると主張した。藩側では、二俵の給方を与えることで説得しようとすが、銃隊組の側は、昨年の状況に戻して欲しいと藩に願い出た(竹中竹右衛門家文書)。この結末はわからないが、この一連の動向のなかに、領内守衛への民衆の動員、ついで「他国」への兵夫の徴発準備へと軍事動員がエスカレートしていく様子をみれるとともに、「太切之御田地」を「守護」し、年貢の収納を第一の役と主張することで、「他国軍役」を忌避しようとする民衆の思いを読み取ることができる。



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