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 第六章 幕末の動向
   第四節 幕末の民衆
    二 軍事動員される民衆
      浪士一件の動員
 本章第三節に述べたごとく、水戸浪士の一隊は元治元年十二月四日に美濃から越前大野郡に入り、池田谷を通り、木ノ芽峠を越えて、敦賀郡の新保に着き、降伏する十七日まで新保に留まった。この間、多くの藩にも出陣が命じられ、それにともなってどの藩でも多くの夫人足の動員がなされた。

表182 大野町の夫人足

表182 大野町の夫人足

 ここでは、最初に浪士を迎えた大野藩が、城下大野の町から動員した夫人足に限ってみておくことにする。表182は、十二月四日から二十六日までの二三日間に大野町から動員された夫人足の人数・延人数・賃銀・動員の内容を示したものである。動員の延人数は、二四一一人、一日当たり約一〇五人にのぼる。これら動員された人足には賃金として総額銀八貫一四二匁五分が支払われたが、その額は一律ではなく大砲方は一日銀一〇匁、陣所行は五匁、浪士が大野に迫った十二月初旬の町役所詰・病院詰は三匁、兵粮引取や浪士通過後の笹俣行・飛脚などは銀三匁、火消詰人足・町役所御用箱持などは銀二匁、浪士が去った十二日以降の町役所詰は銀一匁五分、出張所行は銀七分五厘であり、賃銀は、全体的には浪士が大野郡に入る直後が高く、その危険度と仕事の内容によって大きく変わった。
 村高五〇八石余の中据村でも十二月から翌年正月にかけて、延べ二五〇人余りの夫人足が動員されている(安川與左衛門家文書)。大野町と中据村の例からすれば、高二石にほぼ一人の割合で動員されているので、藩領全体から動員された夫人足は二万人を下らなかったと思われる。
 夫人足の賃金は、藩では総額を銀三八貫匁ほどと推定し、うち銀三〇貫匁を領内に下げ渡した。しかし、実際に要した費用は四四貫四六六匁九分であり、不足分は町や村で負担せねばならなかった。藩でも不足の出ることを見越していたようで、不足分については、それを六で割り、その五つを高割に、残る一つを家割にするよう指示している。その結果、家一軒に銀五分一厘、高一〇〇石に三〇匁四分二厘四毛が百姓や町人の負担となった(斎藤寿々子家文書)。このようにこの時期の動員は、日常とは異なった夫人足の動員というだけでなく、経済的にも多くの負担を民衆に負わせている。



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