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 第六章 幕末の動向
   第四節 幕末の民衆
    二 軍事動員される民衆
      夫人足六〇〇〇人
 元治元年九月二日、福井藩は、長州出兵のための夫人足六〇〇〇人を領内の村々に課した。夫人足は、村高一〇〇石に二人とされ、その人選は、農兵・病身者・弱輩者・僧医者・在宅奉公人・家中奉公人・渡守・船乗・庄屋長百姓惣代を除いた一五歳から五〇歳までの男子の鬮取りで行うよう指示された(友田是直家文書 資4)。
 友田伊右衛門が大庄屋を勤める坂井郡内の二六か村では、表181のように夫人足が割り振られたが、その人選はさまざまな抵抗にあい、簡単には行うことができなかった(友田是直家文書 資4)。その理由の一つは、庄屋・長百姓など村役人を人選から除くことへの不満であった。二つ目は、小前層の抵抗である。小前たちは、加戸村・西谷村では夫人足は高持が勤めるべきだとし、また小前一人に五〇石の高を宛てがってくれるなら鬮を取るといい、田中々村では高持のなかで組を作り五〇石に一人を出せばよいとし、横垣村では高持が夫人足を出しきったならば小前も負担するとし、竹松村では高かさの者から夫人足に出るべきだとした。こうした小前の主張は、この夫人足の賦課基準が高一〇〇石に二人と高掛であったことを根拠としているが、より根本的には村内における高持と小前の対立があった。
 抵抗の三つ目は、村から夫人足に出た者への補助金ともいえる与内銀の額とその負担をめぐるものである。藩からは一人につき道中小遣金二分と夫米一日七合五勺の支給が約束されていたが、それでは十分ではなく、村々は夫人足に出る者へ別にかなりの額を支給している。この二六か村については明らかではないが、同じ福井藩領の吉田郡東古市村では、夫人足一人につき一日銀一四匁の賃金と路用として金五両を、同郡上谷口村では当座金二両・賃金一〇匁・路銀一両を渡している(東古市区有文書、小林又兵衛家文書)。坂井郡番田村では与内銀を七匁とするか八匁とするかで、また西谷村では家割を五分とすることで揉めている。ちなみに東古市村では高割六分五厘、家割三分五厘、上谷口村では高割七分、家割三分としている。
表181 坂井郡上関村伊右衛門組の
村別夫人足数

表181 坂井郡上関村伊右衛門組の村別夫人足数



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