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 第六章 幕末の動向
   第四節 幕末の民衆
    二 軍事動員される民衆
      「御高守護候百姓」
 元治元年七月四日、鯖江藩に対し京都警衛が命じられた(『間部家文書』)。藩は領内の村々に二二〇人の夫人足を割り付けた。村々では「即急」のことであるとして「不相当過分之給金」を出して夫人足の手当てをした。ところが、鯖江藩の一隊が京都に入って間もない七月十九日、退京を命じられた長州藩の兵と幕府側との間で大砲を射ち合うほどの戦いとなった。いわゆる禁門の変である。鯖江藩の夫人足たちは「大小砲筒」の音に「恐怖」して陣場を逃げ去る者が多く出たため、代夫が村々に求められた。しかし、この「騒乱」を聞いた村々では誰一人として夫人足に出ようという者はなかった。
 それに対し、藩は同年八月、夫役を高役とし、その対象を一五歳から六〇歳とし、人別に鬮取りをして出る順番を定め、一〇〇日代わりで出ることとし、夫一人に一日米七合五勺と村負担の一日永五〇文を与えるという、新たな夫人足の動員を領内に命じた。これに対し、鯖江藩領「丹生・今立・大野三郡村々小前高持百姓并村役人共代兼惣代之者共一同」は、「懸命之御陣場江罷出候義を恐怖いたし、親子兄弟肉縁之者者互ニ差留合、誰壱人鬮を引候者無御座候」事態であることを述べ、さらに自分たちは「銘々御高守護罷在候百姓」であり「百姓夫役」を免除するよう願い、さらに「前々より夫米代金」を上納しているのであるから、どうしても動員されるのであれば、夫米代金は免除してもらいたいと訴えた(土蔵昇家文書)。ここには、百姓は「御高」を守るもので戦陣には武士が出るものであるという百姓の武士に対する主張をみることができる。



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