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 第六章 幕末の動向
   第四節 幕末の民衆
    二 軍事動員される民衆
      農兵
 外国船が日本近海に現れ出した頃より、幕府や諸藩では、百姓を兵に編成することで、弱体な軍事力を少しでも補完しようとした。
 福井藩では、文久二年(一八六二)九月八日、農兵を取り立てるための調査を月番目付・勘定奉行・郡奉行に命じた(「家譜」)。その後、村々に出された触で、藩は近年異国船がしばしば渡来し、世上が穏やかでないが、国力さえ強ければ何の気遣いもない、そこで「士農工商とて士につゞく百姓」であるから、村々から若くて丈夫な者を出し、万一の節の「御用」に立てることにしたと一方的に申し渡し、農兵候補の書上を命じた。坂井郡十楽村では、翌年四月に農兵候補一七人を書き上げたところ、翌月にはそのうちから三人を農兵として出すことを命じられている(川崎直右衛門家文書)。
 藩では、早くも文久三年一月十九日に農兵を取り立て、高知である稲葉載五郎と大谷丹下に一組ずつ付属した。同年四月、六月にも一組ずつの農兵が狛帯刀、酒井与三左衛門にも付けられ、農兵の拡大が計られている(「家譜」)。
 こうして徴発された農兵は、領外へも動員された。元治元年の禁門の変に際し福井藩は、御所の堺町御門を護るが、そのなかに農兵がおり、この時の騒乱で多くの者が死亡しまた疵付いた。福井藩では、この年の十月、騒乱の際に動員されていた農兵すべてを免じ、死去した者へは供養料として銀三〇〇匁を下げ渡すとともに、その跡継ぎの子を「荒子」として召し抱え、手負いの者へは療治代として当年限り米五俵を支給し、農業に差し支えるほどの疵を負った者へは一代一人扶持を与えることとした。しかし他方で、戦場から逃げ去り京都での宿所である岡崎の屋敷に戻らなかった者は押込めに処し、また鉄砲を紛失した者に過料金二両二歩、脇指・胴乱を紛失した者に過料金一歩の上納を命じるなど、厳しい処分を行った(「家譜」)。
 さらに藩は、京都に動員されていた農兵を免除した同じ日に、「御国并他国御用」のための農兵一六八人を新たに選び、「他国御用中」は新組同様五石二人扶持を宛行い、国にいる時は一年に米四俵ずつを与え、日割での調練に出ることを命じ(「家譜」)、不足する軍事力を補った。
 小浜藩では、敦賀郡を対象に文久三年、農兵が設置された。その目的は「夷船防御」と「不慮之異変」に備えるものであり、敦賀郡に限られたのは、敦賀の地が城下小浜から遠く、即座の手当てが困難であったからである。農兵は、一七歳から三五歳までの壮健な者二〇〇人が選ばれ、二〇人を一組とし、組ごとに諸士の頭一人と小頭役一人が設けられた。農兵には一人一年に米一俵が支給され、平時の帯刀(一本指)が許された。農兵の内容は、銃砲隊であり、毎月三度の稽古日が定められ、さらに農閑期には多く稽古に出ることを勧め、「出精志之次第」によっては引き立てることを約束している。しかし、他方で武士の象徴である「弓馬」の道を嗜むことは認めてはおらず、武士と百姓の身分差はかたくなに守られている(「旧藩秘録」、平川幹夫家文書)。
 敦賀の町人に対しては、「町家之義は土着之兵ヲ仕立候訳ニも無之」との理由で農兵は免除され、その替わりに一年二〇〇俵の「夫米」が命じられた。この二〇〇俵の米が、徴発された農兵に与えられた一年一俵の扶持を賄うことになり、藩は農兵創設による負担を最小限にとどめた(大和田みえ子家文書)。いいかえれば、農兵は民衆の負担を前提に創設されたのである。



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