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 第六章 幕末の動向
   第三節 水戸浪士と長州出兵
    三 幕府倒壊と地域の対応
      高まる社会不安
「長州再征」の幕長交戦を間近にひかえた慶応二年(一八六六)五月、一揆・打毀しが江戸時代を通じて最大の高揚をみせる。一揆・打毀し勢の主体は、貧農・都市下層市民に広汎な中層農を糾合したもので、その特徴はまさしく「農村から農村へ、農村から都市へ、都市から農村へと、自然発生的ではあるが、きわめて早い速度で波及する様相が著しく見られたこと」である。
 こうした深刻な社会不安の実相は、さきに春嶽が指摘したとおり、とくに第二次長州出兵による物価騰貴と、農民や都市民に対する幕藩領主層による貢租や軍役などの過酷な賦課によるものである。とくに米価の値上がりが目立ち、例えば大坂での肥後米の石当たり値段は、中沢弁次郎によると、十数年前の嘉永(一八四八〜五四)年間までは、銀一〇〇匁を超えることがほとんどなかったが、慶応元年一月には二〇七・五匁、二月は二三九・九匁、さらに将軍が江戸を進発した五月には六四六匁、次いで幕長間に戦端の開かれる翌二年六月には八九五匁と、平時の約九倍にも急騰している。
 このような異常な社会不安の情勢は、「征長軍」による糧秣の需要や、諸藩が戦乱の拡大を予想して糧米を貯蔵したこと、それに長州藩の下関閉鎖によって諸国物産の大坂輸送が中絶したことなどによるとみられる。そのため、とくに大消費地の大坂や江戸で米の在庫が欠乏し、その機をねらった米商人の買占めなどがさらに値上がりに拍車をかけた。
 「長州再征」が停止されたあとでも、一揆の余波が各地でみられた。慶応二年九月下旬、江戸では下層民を中心に、老中水野忠精と出兵を強引に推し進めた勘定奉行小栗忠順の屋敷への襲撃が呼びかけられ、これは町奉行の手でようやく鎮圧された。江戸市民の下積み層にまで、幕政担当者に対して、「征長」の責任を厳しく追及する意識が働いたものとみられる。
 春嶽は、「征長」停止後の慶応二年九月十四日の建白書のなかで、「畢竟幕政ノ御失体より起候義にて、上奉悩宸襟、下士民を困究ニ為陥候ハ、全ク幕府ノ御失策」(「松平大蔵大輔建言」『松平春嶽全集』)によるものと、少しもはばかるところなく幕府を糾弾している。
 小浜藩領でも、米価はもちろん諸物価高騰により領民が生活苦にあえいでいるため、藩は慶応二年十二月十六日、銀三〇〇貫を与えて窮民の救恤を図った(大和田みえ子家文書)。これより前の八月二十六日には、従来の米穀の津留措置にもかかわらず「竊ニ津出シ致候様之風聞も有之」とし、改めて津出し厳禁の布達を行っている(同前)。また「米穀格段高価」に加え払底する窮状から、八月酒造業者に対し、当年は「関八州之通り銘々株高之四ケ三相減、四ケ一酒造可致候、若シ隠造過造致シ候者於有之者、酒株取上ケ厳敷可申付候」と、大幅な酒造制限の措置をとった(熊川区有文書)。このように、「長州再征」後も依然として続く米価高騰による深刻な社会情勢は、小浜藩領民にまで波及していた。
 大野城下でも、慶応二年十月、町庄屋が連名で藩に対して用捨米(八〇〇俵)の願書を差し出しており、そのなかで「前代未聞之米直段」に加え凶作のため、百姓は難渋の極に達し、「御百姓相続之程如何可相成哉」の窮状にあえいでいると訴えている(宮澤秀和家文書)。



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