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 第六章 幕末の動向
   第三節 水戸浪士と長州出兵
    二 長州出兵と諸藩の動向
      諸藩の動向
 前述の福井藩を除く丸岡・大野・勝山・小浜など若越諸藩の動向に触れることにする。丸岡藩は、藩主有馬道純が元治元年四月十二日老中を退くと、間もなく京都の伏見街道稲荷山辺の黒門口の警衛を命ぜられ、同年六月には、江戸表の麻布善福寺のフランス軍隊屯所の警衛に当たった。第一次長州出兵では、同元年十一月、出雲意宇郡竹屋(矢)村に出兵し、安楽寺を本陣とした。作事小屋を武具置場にあて、番所を四戸、四間に一〇間の夫人足部屋も二つ設けた。出陣の際は、丸岡近辺の村方から夫人足を集め、兵粮や武器の輸送を行った。また別の一隊は、出雲郷村宗淵寺に陣取り、山田兵部の統率する総勢七五〇人をそれぞれ部署につけ、ゲベール銃など新鋭銃器で装備した。しかし、長州軍と戦火を交えることなく、翌慶応元年一月四日出雲をたち、同月二十七日丸岡城下に戻った。
 次いで第二次長州出兵では、慶応二年三月、藩主道純が藩兵を率い、摂津兵庫に出向いて警備に当たった。家老は皆吉民部、御用人は林田三平、足軽支配は高木主税で、本陣を真光寺におき、五か所に分宿した。将軍家茂の大坂進発を前にして、同二年五月八日夜、兵庫一帯に百姓一揆が勃発した。とりわけ「湊川先へ多人数屯集し、貝・太鼓を打ち交わし鯨波相発る」有様で、「凡そ千人余も竹槍・棒様の物相携え、湊川総門へ競い来る」(『有馬家世譜』)という猛勢をみせたため、丸岡藩兵はその鎮圧に当たった。この時、一揆勢の死者は三〇人、負傷者は五、六〇人に上ったが、藩兵には被害がなかった。一揆勢が四散したのちも、その再発に備えて警備をいっそう厳しくした。その後「長州再征」の停止にともない、同年十月には警備の任が解かれた。
 大野藩は、第二次長州出兵に当たり、慶応元年十一月十八日、京都所司代松平定敬より「京師へ胡乱の者入込候も計りがたく候につき、御警衛仰付られ候間、嵯峨・太秦辺へ人数差出し置、改方厳重に致すべく候、尤も時々見廻として、御目付差遣すべく候間、その意を得べし」との通達をうけたので、直ちに藩兵を京都に差し出した(土井家文書)。すでに内山介輔・服部与右衛門の両人が在京し、御目付兼勤についていたが、差し当たり、二小隊ほどの藩兵が嵯峨・太秦方面の警衛に当たった。
 勝山藩も、第一次長州出兵では藩兵を京都に出動させるにとどまり、第二次長州出兵では大野藩と同じく京都所司代の統轄下に入り、慶応元年十二月から嵯峨・太秦方面の守備に当たった。勝山藩兵は、直接戦闘に加わらなかったが、「征長」終結後幕命で大坂に転進し、同三年四月再び京都に出て、竹田街道を警備した。
 小浜藩は、第二次長州出兵の際、長州からの軍船の来襲に備え、船手二五〇人分と川崎町浜台場一一三人分の炊き出し方を、町方の有力町人に命じている(『小浜市史』通史編上巻)。なお同藩では、藩主酒井忠義の京都所司代勤務中の出費、京都・山崎辺の警備や相次ぐ不時の出兵などで、著しい財政難に見舞われ、しばしば御用金を領内に課さざるをえなかった。慶応元年八月には、「一統ニも略承知之通り、近年世上甚不穏、所々戦争も有之候ニ付、京都御警衛者不及申、八幡山崎辺俄ニ出張、殊ニ御警衛ハ永々之事ニ相成」るとの趣意書を出した(団嘉次家文書)。領内の町在に計二万両の軍用金を課しており、幕末の厳しい政治社会情勢にあって、同藩では極度に逼迫した財政難をかこったのである。



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