目次へ  前ページへ  次ページへ


 第六章 幕末の動向
   第三節 水戸浪士と長州出兵
    二 長州出兵と諸藩の動向
      第二次長州出兵の破綻、その波紋
 春嶽のもっとも憂慮していたことが、現実となったわけで、春嶽は六月十二日老中板倉勝静に対して、手厳しい諫止を行った。それによると、昨年来将軍が大坂に滞在しているため、京畿はもちろん諸道の民力もすこぶる困弊し、とくに畿内はまったくの食料難で、兵粮を諸国から徴発せねばならなくなったが、その諸国も「連年の徭役」のためいたく疲弊している。そこで、未曾有の高価な米・粟を京都・大坂へ移出することになれば、民衆は前後をわきまえずに一揆を起こすのは必定だというのである。このとき春嶽が、「自国の形勢を以、余州も推量仕候事ニ候へハ」と述べたのは、福井藩領内では表面だった一揆こそ起きていないが、決して楽観を許さない社会情勢であったことを物語っている。
 春嶽は、断固たる決意で六月二十五日福井を出発、二十九日京都岡崎の藩邸に入り、当面の紛糾した政局の収拾に乗り出した。七月一日慶喜を訪ねて要談しており、その折の慶喜の言い分は、軍用金にひどく欠乏しており、将軍の出陣ともなれば、差し当たり一三〇万金(両)が必要だが、幕府の手持ち高はわずか二万金程度で、大坂で三〇〇万金の御用金を課したのが容易に整わないため、横浜の外商から借り入れる準備を進めているというのであった。このような深刻な財政難のなかで幕府の「征長」作戦はうまくいくはずがなかった。また、第一次長州出兵に比べて戦略態勢の足並がそろわず、しかも戦意にはなはだ乏しい諸藩の動きや大坂や交戦地域での一揆の続発におびやかされるなど、幕府軍は敗退の一途をたどった。
 一方、長州藩では、領民の力を組み入れた洋式軍制による挙藩的な反撃態勢が整い、幕府軍をいよいよ窮地に陥らせた。七月二十日の将軍家茂の病死により、幕府はようやく撤兵の機会をつかんだ。このとき、春嶽が「九州解兵」の好機であると進言したのはもちろんであり、慶喜は八月十六日「長州征伐を停止し、大名諸侯を招集して国事を議すべきこと」を朝廷に奏請して勅許を得た。
 春嶽が最も危惧したのは、幕藩支配層間の内戦によって、民衆の戦争反対・反封建闘争=百姓一揆の激発など、民衆を巻き込む全国的な動乱に拡大するおそれのあることであった。しかも厳しい外圧による緊迫した情勢下では、「幕府の御威光失墜遂に社稷如何相成るべく」と、たんに幕府の興廃にとどまるだけでなく、我が国全体の命運にかかわる非常事態を招くものと判断した。
 慶応期の段階で注目される極東情勢は、文久期以降一応保たれていたヨーロッパ列強間の協調がくずれだし、とくに英・仏間の対立関係が、「長州再征」を契機に著しく先鋭化したことである。慶応元年後半から長州藩は、薩摩藩名義でイギリス商人グラヴァーより小銃・艦船などを買い付ける便宜をうけており、グラヴァーは同国公使オールコックやその後任のパークスの強力な支持をうけていた。ことにパークスは中国で二十余年にわたり活躍し、その本格的な半植民地化の導火線となるアロー号事件の際には、広東総領事としていわば起爆剤的な役割を果たした人物である。
 これに対してフランスは、幕府との提携を進め、それがまず横須賀製鉄所の建設計画として具体化し、さらに勘定奉行小栗忠順とフランス公使ロッシュとの間に、日・仏商人の合同会社を設立する交渉が進められた。また小栗は、フランスの経済使節クーレーとの間に六〇〇万ドルの借款契約を成立させたが、これは慶喜の徳川宗家継承後間もないことである。幕府は、その借款による資金のプールから、大量の銃砲や軍需物資の提供をうけるのが可能となるが、そのかわり幕府に要求されるのは、フランスの対日生糸貿易の独占などであった。このように、長州問題をめぐり、国内の分裂的情勢を著しく醸し出し、また先進資本主義列強の内政干渉の危険性を増大させた。とくにイギリスが薩長と、フランスが幕府と提携すること自体が、当時の政局にとり最も恐るべき「外圧」であった。
 要するに、春嶽を先頭に押し立てた福井藩論は、「長州再征」の慶応期が、勝海舟をしていみじくも「払郎西は・・・・・・狼也、英は饑虎也」とまで嘆かせた厳しい外圧の迫るなかで、まさに内憂外患のピーク化した危機的情勢として、真剣にうけとめていたのである。



目次へ  前ページへ  次ページへ