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 第六章 幕末の動向
   第三節 水戸浪士と長州出兵
    二 長州出兵と諸藩の動向
      第二次長州出兵反対の訴え
 福井藩兵が帰城して間もなく、慶応元年四月、幕府は「征長先鋒総督」に前尾張藩主徳川茂徳を任命(翌五月和歌山藩主徳川茂承に交替)して、「長州再征」に乗り出すことになるが、その第一の理由は、「長藩に容易ならざる企あり」ということであった。
 長州藩内での高杉晋作等の下関挙兵に始まる慶応元年当初の内乱は、「正義派」の圧倒的な勝利となり、藩の主導権を従来の「俗論派」から奪取した。「正義派」の基盤は、当時いちじるしく経済的な発展をみせた瀬戸内地帯であり、とりわけ「農商を安んずる」ことを旗印とする奇兵隊以下諸隊・農兵隊の強い軍事力に支えられていた。こうした革新勢力のもとで藩の富国強兵化が強力に推し進められた。
 四月二十一日、幕府から福井藩に対しても、「長州再征」への支援と松平春嶽の上京が求められた。しかし、春嶽は「幕府方今御不都合ノ品々有之」として、上京に応じ兼ねると拒否した(『続再夢紀事』)。すでに春嶽は、三月二十七日付の一橋慶喜あての返信で、長州藩主父子等を強いて呼びよせることははなはだ困難で、もし彼等の憤激をあおって、ついに全国的な内乱を引き起こすことになると、「皇威幕権」にもさし響きはなはだ憂慮に堪えないと述べた。そして「長州再征」の不可を強調し、ぜひとも「太平ノ命脈」を維持してほしいと訴えた(同前)。ところが幕閣の強硬派は、春嶽等の慎重論者の反対意見を押しきって、四月十九日大目付よりの廻状で、将軍が江戸を進発する期日を五月十六日にすると公表した。
 福井藩では、重臣会議を開いて検討した結果、あくまでも「長州再征」を食い止める方針を確認し、四月三十日藩主茂昭の名で、建白書を幕府に提出した。その中で、第一次長州出兵は戦火にはおよばず幸いであったが、「又々大兵を被動候儀は必天下ノ乱階ニテ諸大名ノ困窮、万民ノ怨嗟誠ニ以不一方事共ニテ、此上如何成不測ノ変を可生哉も難計、乍恐御家ノ御為ニも相成間敷歟と不堪恐懼奉存候」と切々といさめた(『続再夢紀事』)。前述のように第一次長州出兵の際、同藩は莫大な軍費を費やし、また一部領民にもさまざまな軍役を課すなど厳しい負担を負わせていた。
 春嶽は、毛受洪に上京を命じ、在京の一橋慶喜・松平容保や諸藩士等との意見交換や説得工作により、事態の収拾をはかろうとした(「雲霧秘録」毛受家文書)。さらに春嶽は、朝廷への入説にも懸命となり、五月二日賀陽宮と山科宮に書翰を送っている。とくに山科宮あて書翰のなかでは、「此一挙」(「長州再征」)はたんに幕府だけの問題ではなく、我が国全体としてまさに内憂外患の政治的・社会的な危機を覚悟せねばならないと厳しく警告した(『続再夢紀事』)。この書翰のなかで強調される「皇国ノ盛衰・安危存亡ノ境」とは、一方で欧米列強の外圧に対応するための全国的統一国家の形成という目標が真剣に意識されていることで、この際、国内での幕府・藩の対立抗争こそは、絶対に避けねばならないと強く判断したものといえる。
 しかし幕府は、福井藩を初め諸雄藩の懸命な諫止にもかかわらず、「再征」の準備を進め、九月二十一日朝廷に奏請して「長州再征」の勅許を得た。これは「征長の名分」を明らかにし、反対論を押しつぶすためであった。
 慶応二年は政情激動の年であり、一月のいわゆる「薩長同盟」の成立にともない、長州藩では挙藩的な抗幕態勢ができあがった。幕府側で「長州再征」にきわめて批判的な要人の一人に勝海舟があげられる。海舟は四月二十八日付の春嶽にあてた書翰で、民心の不安定な社会情勢を憂え、武力によらずに政局をおさめることを真剣に論じている。春嶽は勝への返書のなかで、封建支配層の旧態然たる収奪政策をいたく憂慮し、さらに同年五月上旬の畿内を中心とする米騒動などの一揆についても格別の関心を示して、「下民一時ノ蜂起モ計リ難ク人心ノ離散必発、御同意申スベク憂ニ堪ヘズ候事ニ候」(『続再夢紀事』)と、海舟の情勢判断にまったく共鳴している。事実、大坂に近い摂津の西宮から起こった一揆が発火点となり、次いで兵庫・灘・池田・伊丹へと広がった。そして五月十三日には、大坂とその近郊が一揆の波に洗われ、「大坂十里四方は一揆起こらざる所なし」というきわめて不穏な有様となった。
 幕府は、春嶽等の再三の諫止にもかかわらず、「長州再征」への福井藩の協力方を要請し、慶応二年五月二十七日藩主茂昭の上京を求めたが、茂昭は病気のため出陣に堪えられないと拒否した。次いで春嶽の上京を督促したので、春嶽は六月一日やむなくその命に応ずる旨を回答するとともに、幕府に「演説案」を差し出した。このなかで、「貢租の過重な負担と物価の高騰により、士民が困窮している。将軍が征長のため大坂を出発すれば、その機に乗じ、幕府の失政を口実に、人心を扇動してどんな変乱を企てる者が出てくるかもしれない。そのため将軍は絶対に出陣してはならない」と切言した(『続再夢紀事』)。
 こうした緊迫した情勢の中で、六月七日周防で幕長間に戦端の火ぶたが切られた。幕府軍が戦艦から砲撃したことに始まり、戦火が安芸・石見・小倉の各方面に及んでいった。



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