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 第六章 幕末の動向
   第三節 水戸浪士と長州出兵
    二 長州出兵と諸藩の動向
      第一次長州出兵と福井藩
 元治元年(一八六四)の第一次長州出兵では、福井藩は薩摩・土佐・宇和島などの諸雄藩とともに、同年七月の禁門の変に対する手厳しい責任追及の挙に出た。禁門の変とは蛤御門の変とも呼ばれ、長州藩の一部尊攘激派が、文久三年(一八六三)の八月十八日の政変で失墜した藩の力を挽回するため、京都に出兵して御所を守る薩摩・会津・桑名などの諸藩兵と蛤御門周辺で戦って、敗れ去った事件である。このとき、福井藩は堺町御門を守備し、長州藩兵との戦闘は熾烈をきわめ、軍監の村田氏寿も砲弾のため重傷を負った。三万戸近くの家屋が猛火に包まれ、賀茂河原は避難民でごったがえした。
写真164 松平茂昭像

写真164 松平茂昭像

 幕府は長州藩を徹底的に制裁しようと、中国・四国・九州などの二一藩に出動命令を下し、将軍自ら「長州征伐」に当たることを声明した。総督には初め和歌山藩主徳川茂承が、のちに代わって前尾張藩主徳川慶勝が任命され、副総督に福井藩主松平茂昭が当たることになった。元治元年十月、幕府は大坂城に諸藩の重臣を集めて、長州藩攻撃についての軍議を開き、十一月十八日を総攻撃開始の日と決めた。これにより、総督慶勝は広島に、副総督茂昭は九州の小倉に出陣し、長州藩の包囲態勢は、同月上旬一応整った。
 ところが、長州藩ではすでに八月五日から、前年の文久三年五月の攘夷決行への報復として英・米・仏・蘭四国連合艦隊の猛攻をうけ、四日間の戦闘でほとんどの沿岸砲台が破壊された。さらに陸戦隊の上陸・占領を許した。このとき同藩内部では、尊攘主義の「正義派」が後退し、代わって幕府への恭順を主張する「俗論派」が藩の主導権を握った。その機に乗じた「征長総督参謀」の西郷隆盛の画策により、禁門の変の責任者として益田・国司・福原の三家老に切腹を命じ、四参謀を処刑した。さらに藩主父子の謝罪書提出、長州在留の三条実美等五卿の他藩への移出、山口城の破壊など幕府側の諸要求を一切つらぬいた。これにより幕府軍と長州藩とは戦火を交えることなく、元治元年十二月総督は全軍に撤兵令を下した。
 福井藩の出兵については、「征長出陣記」「長防征伐略記」「長州征伐小倉陣中日記録」(松平文庫)などの諸史料に詳述されている。福井藩兵は、元治元年八月二十八日城下を出発し、翌慶応元年(一八六五)三月七日帰藩するまでの前後八か月の長期にわたって軍役を負担した。しかも藩主茂昭が「征長副総督」という大任を担った。もともと同藩は、禁門の変を起こした長州藩の策動を全く不届至極だとして決起したが、兵員はもちろん糧食、軍用品の徴発・輸送などに莫大な費用がかかった。そのため、福井出発の前日には達書を出して、軍費をひねり出すため、家臣団一同に大幅の「借米」を言い渡した(「征長出陣記」)。
 第一次長州出兵で、福井藩は多大の軍費を費やし、財政面でも大きな痛手を受けた。慶応元年四月二十二日藩主茂昭は自ら福井城本丸で、出陣した将卒に対して「昨秋以来小倉表ニ永々在陣苦労大儀ニ存ずる」と労をねぎらったが、いたく辛酸をなめたのは、たんに将卒ばかりでなく、糧食を徴発され、軍用資材・物資の運搬など種々の軍役を強いられた領民であった。例えば、出兵軍の一番手に所属する「御作事方改役」に大工七人・車力三五人・御家中幕持人夫一三人が、また大砲隊所属の予備山砲車三斤熕四門の弾薬持に人夫一六〇人が徴用されたことからもうかがわれる(「征長出陣記」)。



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