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 第六章 幕末の動向
   第三節 水戸浪士と長州出兵
    一 水戸浪士の西上
      浪士勢の処刑
写真162 松原神社に移築された鰊蔵

写真162 松原神社に移築された鰊蔵

 浪士勢の幕府への引渡しが決まると、敦賀町内の警戒が厳しくなり、本勝寺・本妙寺・長遠寺の近辺や往来の入口は通行禁止となった。その外回りを彦根・福井・小浜の三藩が警備に当たり、夜間は各所にかがり火をたくという物々しさであった。こうしたなか浪士勢は、船町の鰊蔵一六戸に、一戸に五〇人ずつ収容された。土蔵の窓はすべて釘付けにされ、敷物は莚であり、土蔵中央に桶を置いて便所とした。また食べ物を渡すため、土蔵の出入口の戸に手が入るだけの穴が開けられた。武田耕雲斎等三〇人を除いて、左の足に足枷をかけるという苛酷な仕打ちであった。
 田沼意尊一行は二月一日敦賀に入り、永建寺を本陣とし、即日永覚寺に仮白洲を設けて、浪士等の取調べを開始したが、それはきわめて形式的なものであった。幕吏が浪士の断罪を終えて敦賀を発った直後の三月五日、加賀藩士が国元に報告した覚書(「諸事留」『加賀藩史料』)によると、「敦賀表浪士」総人数は八二八人で、そのうち二四人が病死、三五三人が死罪、一三六人が遠島、一八〇人が追放、一二五人が水戸藩渡し、少年九人が永厳寺預け、一人が江戸送りとなっている。なお、一八〇人の追放者は浪士勢の西上に従った諸国の軍夫で、また水戸藩渡しの者は同藩領下の百姓であった。
写真163 武田耕書斎の墓

写真163 武田耕書斎の墓

 処刑は、二月四日から町はずれの来迎寺境内の刑場で始まり、まず武田耕雲斎を初め二四人が斬首された。彼の辞世の歌の一つは、「咲く梅の花ははかなく散るとても 香りは君が袖にうつらん」というものであった。続いて、十五日に一三四人、十六日一〇三人、十九日七六人、二十三日に一六人が処刑された。武田耕雲斎・山国兵部・田丸稲之衛門・武田小四郎の首級は塩漬けにして水戸に送られ、三月二十五日から三日間水戸城下を引き回し、二十八日那珂湊にさらし野捨とされた。さらに幕府の厳しい処分は、彼等の家族にまで及び、残虐の極に達するものであった。
 敦賀の禅宗永建寺・永賞寺・永厳寺や天台宗真禅寺は、処刑された浪士をとむらうため、役所の許可を得て、三月四日と十五日にこぞって法会を営んだ。その後の政治情勢の推移のなかで、慶応二年五月十五日、幕府は大坂において遠島に処せられた浪士を許し、小浜藩に預けることにした。このため同藩は、浪士の宿所を永厳寺に移すという寛大な措置に切り替えた。さらに、王政復古後の明治元年(一八六八)二月の北陸道鎮撫使高倉永外字下向の際、墓所所有者の西本願寺に墳墓の改修を命じた。また、同七年十一月、水戸で神社創設の儀がおこり、翌八年一月許可を得て、松原神社が創建された。境内には、常陸産の寒水石に滋賀県令篭手田安定の碑文が刻まれており、昭和二十九年(一九五四)には九〇年祭を記念して、かつての鰊蔵一棟がここに移築された。



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