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 第六章 幕末の動向
   第三節 水戸浪士と長州出兵
    一 水戸浪士の西上
      浪士勢の悲運な末路
 浪士勢は、十二月七日には今立郡大本村に宿し、ついで八日・九日池田谷に入り、さらに宅良谷を越え南条郡今庄に入って宿泊、十一日は二ツ屋から木ノ芽峠を越え、敦賀郡新保に到着した。ところが、その次の葉原には永原甚七郎の率いる加賀藩兵が厳然と警備の態勢をとっていた。
 一方、禁裏守護のため京都に駐在していた一橋慶喜は、浪士追討の勅許を得て、十二月一日大津へ追討軍の総帥として出陣していた。大津では、加賀藩兵一〇〇〇人を二陣に分け、これに桑名藩兵を加えて先鋒とし、福岡藩兵・見廻組を脇備、会津藩兵を後備として陣容を整え、湖北の海津には小田原藩兵を派遣した。また尾張・大垣・彦根・小浜・福井・大野の諸藩は、美濃・尾張・越前の諸口を固めるよう指令されていた。
 こうした情勢下で、浪士勢が降伏する十七日まで、加賀藩の軍監永原甚七郎と浪士勢の総帥武田耕雲斎との間で、しばしば書面で交渉がもたれたが、これとは別に追討軍は、十二月十七日を総攻撃の日と定め、着々と二重・三重の厳しい包囲体制を進めていた。この期に及んで、浪士勢には戦いを挑む意図はまったくなく、もっぱら西上の道を開くよう懇願したが、永原は一橋慶喜の命で出動したので、このまま通過することを許さず一戦のほかはないと回答した。そこで、浪士勢は加賀藩の好意にすがるほかはないと、歎願書と始末書を慶喜に伝達するよう依頼したが、結局、降伏状ではないとして、大津の本陣で拒絶された。
 加賀藩は士道をもって浪士勢に対処し、十四日には米二〇〇俵、漬物一〇樽、酒二石、鯣二〇〇〇枚を贈った。浪士勢は、新保到着以降の加賀藩の恩義に感じ、敵対的な行動をとらずに降伏の議を決し、その旨を加賀藩に伝えた。このため同藩は、早速福井・小田原両藩に急使を出して、十七日の総攻撃を見合わせるようにした。
 こうして、浪士勢は加賀藩の軍門に下ることになった。その後二十一日、永原は海津に赴き、浪士勢の降伏状を慶喜に手渡し、翌二十二日から浪士勢の人員・馬匹・武器類の引渡しが行われた。総人員は八二三人を数えるが(「葉役目録」『加賀藩史料』)、その後敦賀の諸寺に収容される以前に病死者が数人でたようである。
 慶喜は二十四日海津を出発して帰途につき、二十三日から二十五日にかけて、敦賀の本勝寺に武田耕雲斎・山国兵部・藤田小四郎等三八七人、本妙寺へ武田魁介を初め三四六人、長遠寺に山形半六等九〇人が収容された。加賀藩は祐光寺を本陣とし浪士勢の世話に当たり、小浜藩は町内の警備を担当した。加賀藩の浪士勢に対する処遇は、懇切をきわめ、士分には一汁三菜、卒には一汁二菜が与えられ、このほか、薬用の名目で一日酒三斗を配り、煙草・衣類など日用品まで支給したほどである。
 幕府から浪士勢引取りの命をうけた若年寄の田沼意尊は、二十九日加賀藩から浪士全員の身柄の引渡しをうけた。それに先立つ二十七日夕刻、加賀藩の永原は本勝寺の武田耕雲斎のもとに行き、幕吏への引渡しを知らせ、別れを惜しんだという。次いで、永原は寺内の浪士を訪ね、さらに本妙寺・長遠寺の浪士を見舞って別れを告げ、慶応元年(一八六五)二月上旬金沢に帰った。



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