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 第六章 幕末の動向
   第三節 水戸浪士と長州出兵
    一 水戸浪士の西上
      大野藩の苦難な対応
 浪士勢一行が越前入りをするのに先立つ十二月一日、大野藩には、福井藩から急飛脚で一行が進路を変えて越前に向かった旨の内報が届いていた。大野藩は、翌二日、南山中・穴馬谷方面に探索隊を派遣し、三日から四日にかけて、城下の警備態勢をとるとともに現地に一番手・二番手を出陣させた(「賊徒一件稿」土井家文書)。
図33 水戸浪士勢の越前国内行程

図33 水戸浪士勢の越前国内行程

 大野藩では藩主土井利恒が江戸在役中で、重臣会議の結果、大野に入る関門の笹俣峠に布陣して防御することになり、家老岡島彦左衛門を初め藩の主力隊を笹俣方面に出動させた。
 一方、蠅帽子峠を越えてきた浪士勢は、四日夜下秋生・上秋生の民家に分宿した。付近の村人の多くは、山の中に逃げ隠れする有様であったが、浪士等は村人には危害を加えず、逃亡しなかった村人三四人に現金を支払ったと伝えられる(武田知道家文書)。
 大野藩は、浪士勢が通行する道筋に当たる上秋生・下秋生・中島の三か村と、上笹俣・下笹俣の民家を焼き払うという無謀な焼土作戦をとっている。藩領村々の民家を焼き払い、橋を切り落し、そのうえ要所要所には逆茂木を構え、笹俣坂には陣所を設けて大砲を配備するという防御態勢をとった。焼き払った民家は、上秋生の全戸、下秋生六軒、中島全戸(九三軒)、上笹俣・下笹俣の全戸、総戸数二〇三軒に上ったという(土井家文書)。なお上秋生・下秋生両村の焼打ちの日時は明らかでないが、浪士勢が立ち去った後とみられる。
 また、大野藩は福井藩と勝山藩に、五日の未明のうちに急飛脚を立ててそれぞれ援軍を求めた。午前十時すぎに、勝山藩から申し出のあった援軍一〇〇人が到着したので、若生子坂の守備を要請した。同日夕刻には、福井藩からの援兵五〇人が到着し、直ちに笹俣坂への出動を依頼した。福井藩からはさらに二〇〇人が差し向けられるとのことであった(土井家文書)。
 浪士勢は五日、本陣を中島に置き、一部は黒当戸にも宿泊した。しかし両村ともすでに焼失したあとで民家はなく、土蔵の焼け残ったあとなどに野営しなければならなかった(武田知道家文書)。この日、浪士勢の先鋒隊は笹俣村に到着したが、折からの雨風は、夜に入って激しい荒れ雪となった。笹俣峠の防備に当たっていた大野藩兵は、すでに引きあげて木本まで後退しており、浪士勢が大野城下に押し寄せるとの風聞により、さらに同地を撤退し、城下と町端の要所を警衛・防御する態勢をとった。ちなみに、耕雲斎配下の安藤彦之進が、五日笹俣番所に対して通行許可を求める書状を差し出しており、その書状のなかで「源烈公(徳川斉昭)の素志も、今日に至り磨滅仕り候段、臣子の至情遺憾に堪えず候、就ては主家の縁族(一橋慶喜)に投し候心得に候間、外諸侯に対し聊も接戦抔の意毛頭これなく候故、滞りなく御番所御通下され候様願い奉り候」(内山良治家文書_資7)と、浪士勢の行動の真意を述べ、諸侯方に戦いを挑む意図のまったくないことを訴えている。
 六日朝には、鯖江藩領木本領家村の大庄屋杉本弥三右衛門からの通報により、浪士勢が笹俣坂越えを始めたことがわかった。さらに大野城下の宮沢由左衛門から杉本家への使者の報告によると、杉本家の当主は鯖江へ出向いて留守だったので代わって近在の上層農の奥兵衛(今井村)・六兵衛(同前)・啓蔵(友兼村)・市右衛門(稲郷村)等が詰めていて、木本の領家・地頭両村とも、すべての民家に浪士勢の宿の割当てをしたというのである(宮澤秀和家文書)。
 こうして、浪士勢は六日夜は木本で宿泊しており、杉本家には浪士勢から贈られた三枚組の八畳敷大の日本地図のうち二枚が現存する。この日、大野城下の町年寄布川源兵衛が浪士勢の陣中に出向き金品を用立して交渉し、大野城下通過を食い止めることに効を奏したといわれている。翌七日、木本から西方の間道を越え、宝慶寺村へと進路をとった。



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