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 第六章 幕末の動向
   第三節 水戸浪士と長州出兵
    一 水戸浪士の西上
      浪士勢の西上、諸藩への衝撃
 水戸藩内での抗争に敗れ、攘夷の決起にも不覚を取った浪士勢(天狗党)は、党の総力をあげて西上し、斉昭の七子で当時禁裏守衛総督として京都に駐在する一橋慶喜に対し、挙兵の素志を披瀝し、聖慮と藩祖歴代の英旨に報いることを決めた。それは十月二十六日のことであった。
 総帥を武田耕雲斎とし、大軍師に山国兵部、本陣に田丸稲之衛門、補翼に藤田小四郎・竹内百太郎を任じ、総勢八百余人を天勇・虎勇・竜勇・正武・義勇・奇兵の六隊に分けて隊伍を整えた。こうした矢先、浪士勢は諸生軍の襲撃にあい、その防戦に数日を費し、ようやく十一月一日に大子を出発した。
図32 水戸浪士勢の西上行程

図32 水戸浪士勢の西上行程

 その際、次のような厳しい「軍律」(「軍令条」)を定めた。一、罪のない人民を妄りに手負せ殺害致候事、一、民家へ立入財産を掠め候事、一、婦女子を猥りに近づけ候事、一、田畑作物を荒し候事、一、将長の令を待たず自己不法の挙動致候事、右制禁の条々相犯すに於ては断頭を行ふ者也、浪士勢が西上の途につくと、幕府の常野追討総括田沼意尊は十一月六日にそのあとを追った。浪士勢は、那須野から南下し信濃路に出て、さらに内山峠・和田峠を越えて信濃下諏訪を通り、伊那谷を南下して、途中から中山道馬篭を経て美濃路を西に向かった。
 浪士勢は、あくまで素志を貫徹するまでは、西上の途上での諸藩との交戦を極力避ける方針をとった。しかし、上野甘楽郡下仁田での高崎藩との戦い(十一月十五・十六日)と信濃和田峠での高島・松本両藩との戦い(同月二十日)は熾烈をきわめたが、結局浪士勢の軍略が効を奏して、対抗勢力を撃退した。
 和田峠の戦い以後、沿道の大方の藩は、幕府に言い訳がたつだけの阻止的な態度をとる程度で、積極的に浪士勢に戦いを挑もうとはしなかった。浪士勢も、できるだけ間道通行を企て、そのため山また山、谷また谷の険しい道を辿らざるをえなかった。
 美濃路では、中津川・恵那郡大井・加茂郡太田を経て、各務郡鵜沼へ進むと、彦根・大垣両藩兵に行く手をはばまれた。そこで、尾張藩領を避けて、間道を北へ進み、十二月一日谷汲川を渡って美濃大野郡揖斐に泊まった。次いで本巣郡日当から同郡長嶺へ向かい、さらに大野郡大河原村で泊まった浪士勢は、四日に美濃・越前の国境である蠅帽子峠を越えて越前に入った。
 何分、降雪の厳しい時期であるだけに、その難渋は筆舌につくしがたかったに相違ない。そのときの事情を、一史料が「此峠は常に旅人の通行なき所にて、只一筋の樵径あるのみ、殊に暗夜積雪四五尺、行路東西を弁せす、三里程の難場なりしが、同勢八百余人、一同心を協はせ、大砲八門車台を取りはづし、其の隊々にて之を舁ぎ荷ひ、病人は肩輿に載せ、同志舁き助け、其の辛苦艱難言ふへからさりしも、同勢の精神、天神の擁護にやありけん、小荷駄二百余人と共に難なく、夜四つ半頃、越前国秋生村に着泊せり」(「波山始末」『福井県大野郡誌』)と伝えている。



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