目次へ  前ページへ  次ページへ


 第六章 幕末の動向
   第三節 水戸浪士と長州出兵
    一 水戸浪士の西上
      天狗党の挙兵
 幕末の水戸藩は、天保(一八三〇〜四四)期の藩政改革以降、改革派と保守門閥派との対立が目立ち、しかも中央政局の政治情勢とのかかわりのなかで、激化の一途をたどった。天狗の呼び名は、水戸藩主徳川斉昭が天保期に藩政改革を実施した際、改革を喜ばない門閥派が、改革派藩士を誹謗したところから生じたものといわれる。改革派には中下士層が多く、したがって、成り上がり者が天狗になって威張るという侮蔑の意が込められていた。
 安政五年(一八五八)七月、前藩主斉昭が、将軍継嗣・通商条約調印のことで、大老井伊直弼と意見が対立し、謹慎処分をうけると、藩内では改革派の系譜をひく尊攘派を中心に、赦免運動が展開された。ところが、藩内の尊攘派は、翌八月の「戊午の密勅」の降下を契機に、密勅を奉じて諸藩に回達すべしとする「激派」と、密勅を朝廷に返納して幕府との衝突を避けようとする「鎮派」とに分裂した。そして、安政の大獄による「激派」への弾圧は、万延元年(一八六〇)三月、桜田門外の変を引き起こした。その後、文久(一八六一〜六四)年間に入ると、「激派」の多くは、常陸行方郡玉造・潮来など水戸藩南部の郷校を拠点に、近辺の郷士・神官・村役人等を集めて軍事訓練を行った。
 文久三年三月、藩主徳川慶篤に従って上京した藤田小四郎(藤田東湖四男)は、滞京中長州藩の桂小五郎等尊攘派志士と交わり、東帰後江戸で鳥取・岡山両藩士等と往来し、尊王攘夷の志を立てた。小四郎は、攘夷の勅命をうけながらそれを実行しようとしない幕府に憤激し、強硬手段で幕府に攘夷の決意を促すべきだと考えた。
 藩地に戻った小四郎は、南部の郷校に拠る同志を誘うなどして挙兵の準備を進めた。そして、元治元年(一八六四)三月二十七日、小四郎を初め尊攘激派藩士・郷士・神官・村役人等六十余人は、斉昭の神位を奉じて筑波山に挙兵した。挙兵に応じた者は数日にして一五〇人を超えた。水戸藩町奉行田丸稲之衛門を総帥、藤田小四郎等三人を総裁とし、天勇・地勇・竜勇・虎勇の四隊編成とした。四月三日下野日光山に向けて出発し、東照宮に参拝して挙兵の成功を祈願し、そこで参篭しようとした。しかし日光奉行がこれを拒絶したので、下野太平山に移り、約一か月半滞在した。
 一方、反改革派の系譜をひく門閥派の市川三左衛門等は、尊攘「鎮派」が主流を占める藩校弘道館の諸生と提携して、反天狗派を結成した。彼等は諸生党と呼ばれ、藩政の実権を握った。こうして、両勢力の間で抗争が激化するなかで、元治元年七月、幕府は若年寄田沼意尊を常野追討総括に任じて、近辺の諸藩を動員して天狗党制圧に当たらせた。さらに八月には、水戸藩の支藩宍戸藩主松平頼徳が、水戸藩主徳川慶篤の名代として鎮圧に向かうが、諸生党から水戸城入城を断られ、やむなく那珂湊に宿陣し、諸生党の軍と対峠した。
 そこへ藤田小四郎の軍勢がきて、頼徳に従って那珂湊にいた元執政武田耕雲斎の軍と合流し、諸生党の軍や幕府軍に対抗した。天狗党勢は、その後次第に幕府軍や諸生党軍に押されて、十月末には那珂湊を退いて北行し、常陸久慈郡大子に集結した。



目次へ  前ページへ  次ページへ