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 第六章 幕末の動向
   第二節 若越諸藩の活動
    四 諸藩の動き
      京都警衛への動員
 この時期福井藩は、後述のように松平茂昭が長州出兵の副総督として出陣していたのであるが、最後に福井藩以外の諸大名が、京都や大坂の警衛に動員されていく様子をみておこう。
 まず大野藩は、文久二年十一月土井利忠の跡を継いだ利恒が、翌年一月十日江戸を発ち、二十五日大野に帰った。利忠も「江戸表騒ケ敷」くと四月に帰国しているが、この時の費用が一九六二両余掛かったという。五月には「上方不案内につき」「京都表探索」のため、内山隆佐や中村雅之進を上方へ遣わしているが、やがて承るであろう京都警衛に備えたものであろうか。六月には急出府のことが命じられ、七月十六日江戸に着くが、八月二十五日には再び江戸を発ち、九月九日には帰城した。入れ替わるように利忠が江戸に向かった。
 文久三年十二月、将軍家茂上洛の供の命が下った。利恒は「大殿様御余光」と喜びながらも、時節柄「何程の入費」が掛かるかと心配している。十七日内山七郎右衛門等七人を先発させ、利恒は二十二日隆佐以下一〇二人を率いて京都に向かい、二十九日大坂に着いた。無事任務を果たした利恒は、翌元治元年(一八六四)五月八日京都を発って、十四日に大野に帰った。一七才の利恒が股肱と頼む隆佐を喪ったのは、六月二十三日のことである。八月になるとまたもや急出府の命がもたらされた。利恒は七郎右衛門を「御供立ち帰り」の役に任じ、九月十日大野出立、二十五日江戸に着いている。七郎右衛門は十月五日江戸を発ち、十六日帰着した。七郎右衛門が水戸浪士迎撃の指揮を執ったのは、このような事情によるのである(「御用留」土井家文書)。
 小浜藩は先述のように、間部詮勝とともに安政の大獄を断行した忠義が、文久二年六月所司代を罷免され、閏八月隠居、十一月には蟄居を命じられた。その跡を継いだ忠氏は、文久三年三月摂津湊川以西の海岸の警固を命じられるが、四月には許され若狭の海岸の守衛をすることになった。さらに元治元年四月には山城八幡・山崎の警衛、七月の禁門の変では京都樫原の警固を分担している。また慶応元年(一八六五)八月、京都警衛などの軍資金として領内に軍資金二万両を課していることが知られる。この頃忠氏自身は江戸に居り、翌二年七月第二次の長州戦争に際して大坂に赴いたが、従軍を免じられて敦賀の警衛に当たることになった。八月十七日敦賀に着き、二十九日には小浜に帰っている(『小浜市史』通史編上巻、「酒井家編年史料稿本」、『間部家文書』)。
 鯖江藩では、詮勝の跡を継いだ詮実が、文久三年三月六日御殿山下の警衛を蒙り、六月には京都を守るために小浜藩への援兵が命じられた。ところが詮実は十二月に逝去し、跡は鯖江にいた卍治が継いで後に詮道と改めた。詮道は元治元年三月十五日鯖江を発ち、二十八日着府している。その留守中の七月四日午後六時頃、京都の御用達西田和三郎が前日の昼に仕立てた急飛脚が鯖江に着いた。それには所司代松平定敬の命令として、長州人が多数伏見・山崎に屯集するので、警衛の人数を呼び寄せるようにとあった。鯖江藩は直ちに江戸の詮道へ報せるとともに、京都へ軍勢を送り出した。この時の確かな人数はわからないが、和三郎の手紙に丹波篠山藩六万石青山氏の例として、人数一五〇〇人ばかり、大砲四丁、小筒一〇〇丁、馬一二匹とあるので、これが参考にされたのであろう。十六日には豊後橋より宇治辺りの警衛を、園部藩小出英尚、西大路藩市橋長義とともに蒙り、さらに伏見も加えられたが、八月には伏見は除けられている。十二月には水戸浪士を捕縛するため一橋慶喜が出陣したので、留守中の京都警衛も命じられた。
 詮道は西丸大手門番などを務めていたが、慶応元年将軍家茂上洛に当たって三月に上方へ行き、京坂や摂海の警衛に当たり、十月四日には増し人数を命じられている。慶応二年六月には京都を藤堂高邦に引継ぎ、敦賀警衛を命じられた。慶応三年十二月二十七日免じられるまでこの地の警衛の当たっている。なお、鯖江藩では「警衛場出張の面々」への「心附金」の出し方について細かく決めており、また警衛出張先から出奔したものがいたことも知られ、警衛への動員が藩にも家臣にも重圧であったことを示すものであろう(『間部家文書』)。
 丸岡藩は、天保九年襲封した有馬温純が安政二年二七才で逝去したあと、一九才の道純が急養子で入って跡を継いだ。道純は、丸岡藩主としては久しぶりに幕閣に連なることになる。万延元年六月奏者番、文久二年六月寺社奉行となり、十一月には朝鮮人来聘用掛を務めた。将軍家茂は翌三年二月十三日江戸を発って上洛の途に就くが、それに先立って道純は正月二十二日若年寄に就任、二十五日には家茂在洛中の「留守」を命じられ、二月十日には外国掛となった。家茂は六月十三日順動丸に乗って大坂を発ち海路東帰し、十六日江戸に着くが、道純が浜御殿に出迎えている。
 文久三年十二月には家茂が再度上洛することになった。道純も軍艦で従い、翌元治元年三月帰府するが、四月十二日老中を罷免されてしまった。七月に伏見へ人数を出したあと長州へ出陣の命を受けたので、九月十七日一旦帰国して軍装を調え、十月十三日には丸岡を発ち、二十二日大坂着、十一月十一日松江藩竹矢村安国寺へ着陣している。そして翌慶応元年一月二十七日帰城するが、十一月には兵庫の取締を命じられ、翌二年五月には「土民一揆」の鎮圧にも当たった。九月二十一日ようやく丸岡に帰っている(「藤原有馬世譜」『間部家文書』、『続徳川実紀』)。
 勝山藩は、長守が元治元年七月大坂加番に任じられて大坂に行ったが、この時人足になりてがなくて困ったと野尻源右衛門が伝えている(「諸用留」野尻源右衛門家文書)。このあと引き続き慶応元年から二年にかけて京都嵯・・太秦辺り、三年には竹田街道の警固に従事した。
 以上のように若越諸大名の軍隊の主力は、元治元年の十二月頃には、諸方の警衛のためにことごとく国元を留守にしていたのである。水戸浪士が越前に入ったのは実にこのような時であり、鎮圧に手間取った理由でもあった。



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