目次へ  前ページへ  次ページへ


 第六章 幕末の動向
   第二節 若越諸藩の活動
    四 諸藩の動き
      勝山藩と林毛川
 小笠原長貴は天保十一年三月八日(二月二十九日ともいう)江戸で逝去し、その「遺命」(「上書草稿」松井家文書 資7)によって、四月十九日に儒学者としても著名であった林毛川(芥蔵・一芥)が四〇才にして家老勝手頭取に任じられた。そのあと長守が正式に家督相続を許されるのは五月二日であり、まだ七才の幼君で江戸で育てられていた。
 毛川は天保十一年十一月勝山へ帰るが、翌十二年閏一月三日江戸に向かい(「三町万日記」仙田昇家文書)、その二月「時務拙論附 改革要務」(松井家文書)なる著作をものしている。この作品は毛川が「数年以来憂慮」してきたことをまとめたもので、なお家老の職に「熟練」したわけではないとしながらも自身の政治理念を披瀝し、さしあたり改めるべきこととして八点を挙げ、先任家老以下諸有司の意見を求めたものである。ここに毛川が勝山藩の現状をどう認識し、どのように改革を進めていこうとしているかということが表現されている。これに対する反応は定かでないが、のちの経過をみれば一応受け入れられたのであろう。
写真160 「時務拙論」(首部)

写真160 「時務拙論」(首部)

 まず「時務拙論」によって、毛川の考える政治の要諦と、勝山藩の「風俗」の現状認識が示される。政治には「寛と猛と」の釣合いが大切で、どちらが過ぎてもよろしくない、今の勝山藩は、百姓が苛政に苦しむというより「寛宥仁恕」に馴れ政令を恐れなくなっているところに問題がある、藩も強く出れば「急務の金談」に差し支えると思って弱気になっている、罪を犯すものを厳罰に処すことによって人が法を恐れるようになるものだ、良民を安眠させることこそが「誠の仁政」である、というのである。そして「御勝手の御難渋」を最も「専務」と認めながら、しかしこれだけはいかなる「明智の人」をもってしても一度には解決できないので、さしあたり右のようなことから始めようとしているところに、この時期の特徴が示されている。
 また「改革要務」は八か条からなり、主として人材の登用について、(1)適材適所たること、(2)廉直潔白にして質朴、しかも猟官とは無縁の者、(3)陰日向のない者、(4)廉恥の心をもち失敗を恐れぬ者、(5)信賞必罰を旨とすること、(6)とくに検見の時賄賂を受け取らぬ者を大切にし、そして(7)目付の任務を活性化することと、(8)たとえ少なくても年々土地から生ずる産物を重視することを強調している。

表172 倹約令違反者の処罰例

表172 倹約令違反者の処罰例

 天保十三年三月二十三日、町年寄安田十兵衛など六人の有力商人に登城の命があり、翌日登城すると、月番家老毛川の口達によって才覚金の調達が命じられた。六人は四月初めから会所で町郷の金高割りを相談して、中旬に金額を決定した。それによると六人で四三〇〇両引き受けるほか、町方一統に五〇〇〇両、郷方一統に二〇〇〇両割り当て、合わせて一万二三〇〇両に上った。一度の上納は不可能なので、六人の信用で三国湊の宮腰屋与兵衛から四〇〇〇両の借金をして、当座を凌がざるをえないこともあった。なお六人の内の一人松村由兵衛は五〇〇両引き受け、八月と十一月に半金ずつ上納した。この内一〇〇両は返済されたが、弘化元年四月残りの三九六両を学問所へ献納させられている(「永代記録帳」松屋文書)。
 同じ年の八月、四四か条からなる倹約令が出された(松屋文書資7)。この法令は単に衣食住や冠婚葬祭に関わるのみではなく、株仲間のほか酒造、諸色値段、買占めや値段の吊上げ、左義長などにまで及んでおり、右の毛川の主張に基づいて厳しく適用されたのである。例えば第二八条では天鵞絨、唐物、金銀製の紙入や煙草入れを禁じ、第三五条で婚礼を分限相応に営むことを申し渡し、第三九条で男女とも白張り以外の雨傘禁止、第四〇条では男女とも青張り日傘、表付き・塗りの履物、鞣革や天鵞絨の雪駄、高価な緒を禁じ、第四一条は下女の日傘を一切禁止している。
 天保十四年九月四日、城下の町人一七人に「叱り」や「遠慮」、六人(下男二、下女四)に「慎み」、十月三日には一五人が「遠慮」に処された。いずれも「御倹約の品」を用いた廉によるが、その一部を示すと表172のようになる。見事な適用というべきであり、毛川のいう「諸人の見せしめ」(「時務拙論」)なのであった。しかも伝蔵の妻や九右衛門の倅、つよの娘にはお咎めがなかったわけで、本人より主人初め夫や親の方が重いのも特徴である。両方とも五日目には全員赦されているが、町人の中にこのような禁制品がかなり浸透していることも注意されてよいことである。なお武士にも厳しい倹約が求められており、同年九月九日安田主馬助は、紬の帯を用いた下女に暇を出し、自らは毛川など家老に「差控」の可否を伺い出ている(「願窺届例文」松井家文書)。
 嘉永二年閏四月の「上書草稿」(松井家文書 資7)は、一六才になり入部も取り沙汰され始めた長守への建言で、全一七か条からなる。内容は、領内の政治も難しいのだから「天下之大政」に携わること、すなわち幕府の役職に就こうとしないこと、家老の人選が第一であり見習を設けること、学問は史学を中心に些末なことに捉われず、大局を把握できるような学び方をすること、知行の宛行を公平にすることなど、藩主としての心構えを説いたものである。
 毛川によれば、産物とは、糸・綿・紙・蝋など年々土地から生ずる「御高の外の上り物」で、手当てが良ければ国益になるが、まずければ「末々の患」いになるという(「改革要務」)。このころ勝山藩では煙草のほか菜種や生糸の生産が発展しており、とくに刻煙草は勝山特産として名が通っていた。嘉永六年十一月、松村由兵衛など四人を元締とする煙草改会所が設置された。翌七年正月、由兵衛を莨外字引合方に任じ、二月には敦賀湊での刻煙草売捌方として原(木綿屋)鹿七と契約している(「永代記録部分帳」松屋文書)。
 嘉永四年十一月十五日、脇屋右馬介が家老見習に任じられ、翌年三月二日三四才で家老に昇任、五月五日には学問所掛となった。右馬介は、安政元年七月長守の大坂加番に従い、翌二年九月帰国、十一月朔日には大坂における「御講并御用場出来」につき指図が行き届いたことを賞されて帷子を賜った。ところが安政二年十二月九日、突然家老罷免のうえ「遠慮」を申し渡されてしまった。理由は「平生心得宜しから」ず、若年の時から登用されたのだから、「林一芥勤役中種々如何の義」があって「一藩の風義も相乱」れた時、同役として理非曲直をはっきりさせるべきであったのに等閑に打ち過ぎ、そのうえ昨秋大坂でも身持ちが甚だ不行跡であったというのである。
 しかもこの申渡しの後には、「但シ此度御叱り子細これ有り、別ニ記し置」くという注記があるが、もちろんこの「別記」は残らない。ところが早くも二十二日には遠慮を許され、年始・五節句・月次などの礼席では家老次席とされ、かつ操練稽古掛に任じられた。そして安政五年五月十五日正式に家老に復帰するのである(「脇屋家譜調」脇屋家文書)。毛川が五八才で失意のうちに死去する二か月前のことであった。
写真161 脇屋右馬介家老辞任願い

写真161 脇屋右馬介家老辞任願い

 他方右馬介は、安政元年二月から明治元年(一八六八)までに、わかっているだけでも八回の家老辞任願いを出しているが、そのうち少なくとも三回は受理されている。理由は大体「生得愚昧」「持病」の故としているが、はっきりしたことはわからない(脇屋家文書)。
 右馬介の右のような動きと、小笠原長守が安政二年十月末に毛川等を処分したとされることとの関りは、今のところ明確ではない。長守は十二月、諸士(脇屋家文書 資7)と町人百姓(松井家文書 資7)へ直書を下すことがあった。前者では、自分が幼少であることをよいことに、不相応の学校や長山講武台を築くなど役人の取り計らいが良くなかったため勝手向が不如意に陥ったこと、後者でも、右に加えてたびたび御用金を申し付け、おびただしい夫役人足をかけて難渋させたのは「誠に以て気の毒の事」といっている。二三才になった長守が、成器堂や講武台に批判的な立場をとり、財政難を毛川などの施策に転嫁して処分に踏み切ったことは疑いなかろう。その理由は、毛川の路線のほかに、右馬介が安政四年の建言で、他藩では西洋砲術を取り入れているが、我が「藩ニテハ心掛候者誠ニ少ク甚だ以て残念至極」と慨嘆し、倹約により暇を出した「新組」すなわち「兵家ニ云う農兵」を再び召し抱えるよういっていることなどと合わせ考える必要があろうが(「建言案」脇屋家文書)、なお今後の課題とせねばならない。
 安政三年二月松村由兵衛が町年寄に任じられ、十一月には安田十兵衛と中村倉吉・松村弥惣兵衛が莨・・・・・・改会所取締見習となった。翌四年正月、木原佗作と由兵衛の取組みによって、泉州堺の具足屋半次郎が産物蔵元を引き受けてくれることになり、莨・・・・・・改会所を諸産物改会所と改称して組織を広げ、三月には松村由兵衛が元締となって松村嘉兵衛と運営することになった。四月二十二日一層厳しい倹約令が出されたあと、九月二十日産物会所が安田十兵衛の家に変わった。なお、産物会所の勘定は、月末に奉行と元締とで行ったようである(「永代記録部分帳」「町年寄日記」松屋文書)。



目次へ  前ページへ  次ページへ