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 第六章 幕末の動向
   第二節 若越諸藩の活動
    四 諸藩の動き
      間部詮勝と鯖江藩
 幕末の鯖江藩もまた御多分に漏れず財政難であった。正租は嘉永二年に一万五〇五三石で三割、弘化二年(一八四五)からの五か年平均が二割九分八厘である。鯖江藩では収支の計算をする場合、歳入を大体一万石で四〇〇〇両、五万石でほぼ二万両とみており、経常支出もほぼ同額のようであるが、臨時の諸出費が大きな負担となり、とくに間部詮勝の奏者番就任や異国船対策が財政難に拍車をかけた。例えば寛政二年(一七九〇)に帳簿上では一万九〇〇〇両以上あった「貯金」が、文政四年(一八二一)には三四〇〇両ほどに減り、同九年奏者番就任と同時に二五〇〇両持ち出されほとんど底を突いてしまったという(「御宝蔵御貯金御勘定帳」間部家文書)。
 文化十一年(一八一四)以降連年四割から半知に及ぶ上ケ米が実施されたほか、詮勝が文政九年に奏者番に就任してから文久二年(一八六二)に隠居するまでの献金が、わかっているだけでも金二万三六三九両、銀二七二貫三二四匁(約四五三八両)になる。安政四年閏五月には、嘉永六年以来の臨時金が海防入用七〇〇〇両など一万六〇〇〇両に上り、家中からの上げ金二〇〇〇両では文字通り焼け石に水で何の役にも立たず、そのため「大津・大坂等之金主江者壱金も御渡金」がなく、「無理無躰ニ」凌ぐ以外ないといわれるほどであった(『間部家文書』)。
 天保十二年(一八四一)二月には、今立郡大庄屋東俣村飯田彦次兵衛と東角間村の覚兵衛の願い出により、産物会所を設け専売制を布いた。産物会所を通じて糸類のほか木綿類・紬類・布類・真綿・麻苧・奉書紙類・火口・艾の九品目を、江戸上槙町喜四郎店牧野左右平方へ送って売り捌くことを認めたのである。他方購入品についても同十四年産物会所が、鰹節や塩・鰊・数の子・棒鱈・黒砂糖・鯣・昆布などを、三国の商人と交渉してなるべく安く買い、それを府中(武生)や粟田部の市場より「格別下直」に売ることにしている。考えとしては「村々利潤」になるようにというにあった。なお産物会所の設置には、詮勝の老中就任による築城許可がひとつのきっかけになっていることも注意すべきで、「御城地御拝領ニ就」き交易を城下で集中的に取り扱うことによる「御城下繁昌(盛)」が期待されたのである(『間部家文書』など)。
 安政五年六月二十三日、詮勝は大老井伊直弼のもとで老中に帰り咲いた。この時一緒に老中になったのが西尾藩主松平乗全等である。二十六日「京都御使」の命を蒙ったが、同じ日に酒井忠義が京都所司代に任命されている。翌二十七日、詮勝に五〇〇〇両ずつの拝借金と下され金があり、忠義にも五〇〇〇両下された(『幕外』二〇―二四八、二四九)。七月五日には先述のように松平慶永が隠居・急度慎の処分にあい、九日には詮勝と忠義に「京都江御暇」が仰せ出され、二十日に詮勝の上洛に関し老中通行の先例にかかわらず、万事手軽に取り計らうことが老中から達されている。詮勝は九月三日江戸を発ち十七日入洛する。そして翌六年二月二十日まで京都に滞在し、忠義と密接な連絡を取りながらいわゆる安政の大獄を指揮したのである。
 詮勝は、大坂・兵庫・堺を見物したあと東海道を下り、三月十一日神奈川辺りを見分し、そこから品川まで蒸気船に乗って江戸に帰った。十八日帰府のお礼言上に登城したところ、越前は「至而薄地之場所ニ而、収納少の趣」といって、一万石の村替えが仰せ出されたが(『幕外』二二―二七七)、村替えに反対して井伊直弼等に篭訴をする者がいるなどしてなかなか実現しないうちに、詮勝は十二月二十四日老中を辞任する。翌万延元年(一八六〇)二月、越前の一万〇〇一四石が上知され、代わりに越後頸城郡の内に込高とも一万一一九六石が与えられることになったが、やがて沙汰止みとなり、越前国内で六村二〇一九石が上知され、込高を含めた一三村六八八二石が与えられることになった。
 この時一三村は鯖江藩とされることに猛反対をするが、その言い分には鯖江藩の政治の核心を衝いたといえるものがある。幕府領から鯖江藩に移されると、(1)毎年御用金を申し付けられ、そのほか臨時の入用も多くかかる、(2)年貢の俵が大きくなり、一俵四斗六升入りが四斗入りとして扱われる、(3)産物会所が菜種や木綿・糸綛など小百姓の「手励」みを全部吸い上げ、運上銀も掛かる、(4)産物の買上げには藩札を用いるから他領へ通用が困難だ、(5)すべての売買を鯖江でするから、その日稼ぎのものは鯖江まで行くのが大変である、というのが一三村の主張であった。
 文久二年十一月、詮勝は老中「御勤役中御不束之儀」を咎められて、一万石上知のうえ隠居・謹慎に処せられ、あとの四万石は詮実が継いだ。結局反対運動が功を奏した形になったのである。



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