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 第六章 幕末の動向
   第二節 若越諸藩の活動
    四 諸藩の動き
      異国船対策
 日本海に異国船が現われると、発見した藩から「海岸付御領主役場」へ順達されることになっていた。例えば嘉永元年(一八四八)庄内藩の沖合へ来た時には、同藩から新発田藩、高田藩、糸魚川藩、加賀藩、福井藩へと順達され、福井藩から本保代官陣屋へ通達、さらに本保陣屋から鯖江藩へ報されている。翌二年二月十八日能登鳳至郡の沖合に異国船が現われた。この時は加賀藩からの二十日付の書状で福井藩に伝えられ、二十三日に本保陣屋が鯖江藩へ報知している。加賀藩の書状は小浜藩にも残っているので、福井藩から連絡されたのであろう。二月十八日と二十三日に隠岐島沖に現われた時は、松江藩から鳥取藩、豊岡藩、宮津藩、田辺藩、小浜藩、福井藩の順に報され、福井藩から本保、鯖江藩へ伝えられた(『間部家文書』、鈴木重威家文書 資9)。
 このように異国船の出没が頻繁になってくると、民衆も海防に動員されるようになる。例えば小浜藩は嘉永四年、近年異国船が日本近海に現われるが、日本は「神代以来独立の国」であり、いまだかつて「一寸の土地」も外国に取られたことはない、今日に至って異国人に乱暴されるようでは「日本国中の大ナル恥」である、したがって「他国の、御他領の」といわず「日本国中一家内」と心得、万一異国人が不作法を働けば「上下男女の差別無」く命を捨て、ひたすら「きたなき異国人ニ神国をけがさせじ」と励むべきである、と令している。そして鉄砲(火縄式)を持っているものには持参することを許して一挺につき一〇発の玉薬を与えることとし、郡村名と出動人数を染め抜いた幟も下付することにした。この布達は今立郡の所領にも出されているから、海辺の村々のみを対象としたものではなかった。しかも安政二年(一八五五)には一層強化され、対象者を一五歳から六〇歳までの「屈強」の者から、手足が不自由でさえなければ誰でもよいことに改めている(大和田みえ子文書、内田五兵衛家文書)。
 ペリーが来たのは先述のように嘉永六年六月三日であるが、四日には敦賀郡にも所領を持っていた安房勝山藩主酒井忠一が、老中へ異国船渡来を注進している。それによると漁に出た者が三日に相模三崎沖で四艘の異国船を見付けたので、早速その旨を近領の面々へ報せ、かつ勝山浜手へ一番固めの人数を出したとある(『幕外』一―二六)。同じ日に、忠一を含む関東地方の諸大名に領内の海岸警衛が命じられた(同三六)。忠一は七日には二番手の者を出動させ(同八〇)、その後も異国船の動きをたびたび注進することがあった。
 この時の老中首座は備後福山藩主阿部正弘であったが、七月一日アメリカの国書について忌憚なく意見を述べるよう諸大名へ諮問した。この時正弘は、国書を受け取ったのは「一時の権道」すなわち「方便」と称している(『幕外』一―二六一)。若越の大名では福井藩松平慶永と小浜藩酒井忠義が意見書を提出している。慶永のものは長文で内容も多岐にわたるが、結論は先述のように強硬な鎖国攘夷論で、尾水両徳川家や一橋慶喜などとともに多数派でもあった。忠義は簡潔な文章ながら、虚偽をいわず誠実に答えるべきこと、もし交易を許すならオランダ人に取り扱わせること、備えを固くして日本の名折れにならないように対処すべきだとしており(同二―二三、三―一九七)、正弘の「権道」に対する批判を含むともみられ、少数意見ながら穏当なものといえよう。



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