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 第六章 幕末の動向
   第二節 若越諸藩の活動
    三 北蝦夷地「開拓」と大野丸
      
利忠の隠居と利恒の襲封
 文久二年一月十一日土井利忠は、小林元右衛門を天保十三年(一八四二)以来銅山取締方を務めた功によって、内山七郎右衛門を「数十年出精」の故をもって、内山隆佐は「蝦夷地開拓」の働きを賞して、各々五〇石ずつの加増を行い、中村雅之進を年寄に任じた。
 四月十三日利忠は一五歳になった捨次郎を伴って出府の途に着き、二十八日着府のあと、五月には捨次郎を嫡子とし、七月に入って利恒と改めさせた。十月二日利忠と利恒の直書が披露されたが、利恒のものには利忠の多病と着府後の風邪がはかばかしくないこと、そのため致仕を洩らしていることなどが触れられていた。十一月十六日には、六日に利忠が隠居し利恒が襲封したことの報せと二人の直書が大野にもたらされた。利忠の直書は「寅年改革」以降の一統の忠勤に感謝したうえで、利恒へのいっそうの忠勤を求め、利恒のものは当分の間はすべてこれまでどおりとし、父に変わらぬ忠勤を要請したものであった。
 他方隆佐は文久三年四月九日、天下の形勢切迫し、いつ戦争になるかもわからないからと、家老・軍事惣督に任じられた。家老は十九日願いによって免じられたが、以後ほとんど利恒と行を共にし若き主君を助けた。ところが元治元年(一八六四)五月の中頃から「時候障り并頭痛」に罹り、六月二十三日遂に死去した。利恒は諸事穏便触を出して隆佐の功績に報いたが、大野丸沈没の二か月前のことであった。
 隆佐の死と大野丸の沈没によって、大野藩の北蝦夷地「開拓」は事実上終止符を打たれたといってよい。この後も人員は派遣され、したがって費用も注ぎ込む結果になったが、遂に明治元年(一八六八)三月二十九日、吉田拙蔵の名で上地を願い出た。その書面には、なんといっても「隔海絶遠、無人荒漠の土地」であり、物価騰貴のうえ運送費も嵩んで採算がとれず、見込みが違い「元来の小藩必至疲弊」したので、人員を引き払い上地したいとあった(「北蝦夷地開拓始末大概記」)。大野藩の蝦夷地「開拓」は完全に失敗したといわねばならない。
 なお先にも触れた岡本文平は、明治四年北蝦夷地を一周したことがあったが、その時の航海日誌である「窮北日誌」七月二十三日の条に、鵜城辺りに「土井氏ノ士二人有リ」と、二人のもと大野藩士に出会ったことを記している。



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