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 第六章 幕末の動向
   第二節 若越諸藩の活動
    三 北蝦夷地「開拓」と大野丸
      「北蝦夷御開拓筋御用」
 これより先安政六年一月、早川弥五左衛門が「連年大義乍ら」と「奥地新開場」への出張を命じられた。弥五左衛門は処女航海に出航する大野丸に同乗して蝦夷に向かった。この時下された「条目」によると、(1)公儀法度の遵守、(2)公儀を嵩にする威光がましき振舞いの禁止、(3)異国人から何も貰ってはならないこと、(4)火の用心、(5)「土人(アイヌ)」に対し粗略のことがあってはならない、(6)不正をすれば厳罰に処す、(7)それぞれの下知を守ること、(8)新開場で抜群の行いがあれば役付きにすることなどが申し渡されている(「内山隆佐手留」)。
 箱館に着いた隆佐は、「日本地失ふべくも夷地は失ふべからず、奥地尤も失ふべからず」という観点から、五月朔日箱館奉行所支配組頭河津三郎太郎へ口上書を提出した。そして、北蝦夷地は「魯夷の境界」で大切な所であるが、ことの成否は「金銀の多寡、領地の厚狭」すなわち藩の大小にあるのではなく、人の「誠意実心の厚薄」にある、我が藩は開拓を見越してスクーネル船も建造した、一歩進めば一歩の勢いを生じ、一歩退けば一歩の畏(萎)縮を生じるものである、請負人等が利を求めて漁場を開くのとは「その趣向自ら雲泥の違」いがあると主張している(「内山隆佐閲歴」)。
 同じ年の九月、幕府は「時勢専要」であるとして蝦夷地の守備開墾に当たらせるため、会津・仙台・秋田・庄内の四藩に蝦夷地の内を割いて領分として与え、盛岡・弘前二藩には陣屋のある場所で相応の地所を与えることとした(『続徳川実紀』)。安政・万延といえば、五年四月に井伊直弼が大老に就任、六月には鯖江藩主間部詮勝が老中に任じられていわゆる安政の大獄が始まり、七月には松平慶永が隠居させられ、六年になると九月十四日に梅田雲浜が獄死し、十月七日に橋本左内や頼三樹三郎が死罪、二十七日には吉田松陰が処刑され、翌万延元年三月三日には直弼が殺害された、そういう時期であった。
 この年の八月二十二日(『続徳川実紀』では二十一日)、利忠は幕府から、「北蝦夷御開拓筋御用」を仰せ付けられ、かの地で引き渡される地所は「領分同様」に心得、「士民」一同に農漁を営ませるよう命じられ、代わりに江戸での諸役をすべて免じられた(「御用留」斎藤寿々子家文書)。隆佐初め大野藩の素願がようやく認められたのである。これを祝って大野藩では、全領内に酒が振る舞われ、御用達や村役人には銀一匁、その他へは家一軒に銭四〇文(二合分)ずつ酒代として配られている(「御用記」布川源兵衛家文書)。
 しかしこれはあくまで「領分同様」であって正式の「領分」ではない。北蝦夷地は先述のように「魯夷の境界」ではあっても国境がなく、幕府としてもさすがに領分として与えることはできなかったわけで、右の六藩とは扱いが大きく違っていたのである。
 翌文久元年二月五日、利忠は「不毛無人の地」の「開拓」なので、三、四年はよほど手厚い「仕入」が必要であるとして、幕府へ一万五〇〇〇両の借金と、石狩場所よりオカムイ岬の間、できればオタルナイかフルビラで一か所の借地を願い出た。ここでは率直に「小高従来薄地所領の私」と認めたうえで、借金は七年据え置き、八年目からの一五年賦返済の約束をしている。借地は北蝦夷までは直行しにくいので、途中「糧米・諸品」を置いておく「中次所」にするためであった(土井家文書)。しかしこの時の願いは容れられなかったようである。



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