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 第六章 幕末の動向
   第三節 水戸浪士と長州出兵
    三 幕府倒壊と地域の対応
      幕府倒壊と福井藩
 慶応二年十二月五日将軍職についた徳川慶喜は、思い切った幕政改革に取り組んだ。とりわけ、従来の合議制をたてまえとする老中の御用部屋制を改め、老中首座の板倉勝静を首相格として、陸軍・海軍・国内事務・会計・外国事務の五事務局を置き、それぞれの長官を総裁とする西欧の内閣制度に近い官僚機構をとり、著しく失墜した幕権の挽回を図ろうとした。
写真165 洋式軍装馬具

写真165 洋式軍装馬具

 このとき、フランス公使ロッシュに積極的な指導と援助を求め、仏式軍隊を養成し、洋式鉄砲により装備された歩・騎・砲三兵の軍制をたてた。この改革に必要な巨額の費用をもっぱらフランスからの借款に仰いだ。それは明らかに、フランスからの援助により辛うじて幕府の権力が保持できる買弁的なもので、かねての福井藩論からすれば、まったく期待はずれに終わった。
写真166 四老公写真真衝立

写真166 四老公写真真衝立

 福井藩では、すでに第一・第二次長州出兵へと進む段階で、「公武一和」の公武合体路線を止揚して、政治の万般を、朝廷の絶対的権威を背景とする「列藩会議」の「公議」に基づいて遂行する公議政体路線を懸命に画策していた。そのなかで、慶応三年五月、京都で松平春嶽・島津久光・山内容堂・伊達宗城の四侯会議が数回もたれ、長州処分問題・兵庫開港勅許問題など当面の重要案件が審議されたが、容易に足なみが揃わなかった。とりわけ、島津久光と山内容堂との意見の食い違い、幕府と薩摩・土佐・宇和島の諸侯間の対立がみられ、春嶽はその間の調停に苦慮していた(「登京日記」福井市春嶽公記念文庫)。
 ところが慶応三年六月、土佐藩の後藤象二郎等が、坂本竜馬の朝廷のもとに政令を帰一して公議政体を構想する「船中八策」に基づき、藩論としての「大政奉還論」を定めた。後藤等による大政奉還の画策が結実し、同三年十月十四日大政奉還が実施された。その後同月二十八日、竜馬が福井城下を訪れた。その目的の一つは、大政奉還後の慶喜の「公議政治」における地位について福井藩の協力を得るためであり、もう一つは維新政府の財政について由利公正の協力を要請するためであった。
 十一月二日、竜馬と由利が福井城下の山町の旅館「たばこや」で会談した。このとき由利は、かつての安政(一八五四〜六〇)期藩政改革で藩札五万両の発行による財政改革の成果をじゅんじゅんと説き、これに対して竜馬が賛同した。この旅館「たばこや」は、現在の福井市照手一丁目にあって、明治三十五年(一九〇二)の福井大火で焼けたが、それ以前は「諸国御定宿」の名で知られていた。

(準備中)

写真167 諸国御定宿たばこや

 熊本の横井小楠は、在京の門弟山田五次郎(武甫)からの知らせで、十一月三日、当然出京すると予想した春嶽にあてた建言書を記している。これは大政奉還によって成立する新政権の基本方針を掲げたもので、「幕庭御悔悟御良心発せられ、誠に恐悦の至也」で始まり、直ちに四藩(福井・薩摩・土佐・宇和島)の諸侯が出京して朝廷を補佐し、慶喜も滞京して大久保忠寛等「正議の人々」を挙用、「御良心御培養、是れ第一の希ふ所也」と述べている。次いで「一大変革の御時節」であるから「議事院」を開設するよう提案する、「上院は公武御一席、下院は広く天下の人才御挙用」が肝心で、四藩がまず執政職の位置を占め、その他は賢名の聞こえのある諸侯を登用せよと強調している。大政奉還後の新政府の発足に当たり、「議事院」の設置が緊急課題であることを訴えたのである。さらに財政・軍事・外交・貿易などの具体的な施策を披瀝するが、この建白書は山田を通じて春嶽に提出された。春嶽としては、小楠の所説にまったく共鳴するところであり、こうした公議政体路線の推進をしっかり胸に秘めたに相違ない。
 ところで、大政奉還運動が、土佐藩により幕府に建議されるまでの経緯をみると、結果的には全く反対の立場となる薩摩藩や宇和島藩と密接な交渉がもたれたのに対し、かねて一貫して公議政体路線を歩む福井藩への働きかけがなされていないのは、一面奇異な感をいだかせる。竜馬や後藤の前期の大政奉還論の内容が、後期のものとは異なり、薩長討幕派との関係を十分懸念しながら、できるだけ土佐藩論を貫徹しようとしたのであるが、後藤等が山内容堂に建議した時点で、前期の一諸侯としての徳川家を含めた「列侯会議」を朝廷直属とする論策が、徳川家に「列侯会議」のヘゲモニーをになわせる体制に改められたのである。
 そのため、福井藩の主張にもきわめて近いものとなり、こうした建白が幕府側に容易に受け入れられたものとみてよい。したがって、今度は、土佐藩と薩長側との関係に大きな情勢の変化をきたすこととなり、土佐藩では、ぜひとも速やかに福井藩の強力な支持と協力が必要だとして、竜馬の福井訪問になったのである。
 後藤の大政奉還論に対する春嶽の率直な意見は、慶応三年十月十二日付の老中板倉勝静あての書翰にみられる。土佐藩の「公議論」策定に薩摩・宇和島両藩との関連性を憂慮し、「西洋法之論を借て、私説を恣にせんか為、議事院を開かんとする覚も随分可有之哉候へは、若々其向々より朝廷へ議事院建白出候而も、軽率御採用被為在候而は、天下之一大変動眼前に生し可申は勿論と、深く心痛仕候」(『丁卯日記』)と述べ、半ば警戒的な態度をとっている。つまり春嶽が危惧する「私説を恣にせんか為」とは、薩摩・宇和島両藩により後藤の「会議論」が討幕に利用されるおそれのあることを示唆している。土佐藩の大政奉還論に疑念をいだいた春嶽は、十一月八日入京し、翌九日土佐藩士福岡孝弟の訪問をうけた際、慶喜に会議を「御主宰」させるという土佐藩側の意向を承知し、その公議政体路線に沿った懸命な入説活動を進めるとの態度を明らかにした。
 十一月二十五日に、土佐藩の後藤象二郎・福岡藤次(孝弟)・神山左太衛と福井藩の中根雪江・酒井十之丞・青山小三郎が福井藩邸で協議した結果、「一藩にても同論多き方、力も強く説も立可申」とし、福井藩からは尾張・熊本両藩へ、土佐藩からは広島・薩摩両藩へ、さらに広島藩からは鳥取・岡山両藩へ入説することを決めた(『丁卯日記』)。福井藩では早速二十六日より、中根が尾張藩の田宮如雲を訪ね、酒井が熊本藩邸に出向くなど熱心な入説活動を始めた。しかし、大政奉還派=公議政体派が大きな期待を寄せた「列侯会議」が開かれないうちに、薩摩藩が主導する武力討幕派による十二月九日の「王政復古」のクーデター的反撃に見舞われる結果となった。



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