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 第六章 幕末の動向
   第二節 若越諸藩の活動
    三 北蝦夷地「開拓」と大野丸
      北蝦夷地探索と家来蝦夷地在住
 蝦夷地の実地踏査は北海道の大自然に弾き返された観があったが、大野藩では「開拓」を諦めたわけではなかった。安政四年一月十九日、浅山八郎兵衛に蝦夷地再見分のことが仰せ出され、合わせて老齢の身なので倅金八も召し連れよとの言も添えられた。八郎兵衛は弓道の師範で、若き利忠の「弓術御相手」も務めたほか、大納戸、目付、銅山用掛頭取、勘定奉行等を歴任した藩士であった。この頃大野藩では西洋流がもてはやされて伝統的な武芸は衰えており、とくに鉄砲の充実によって「弓ハ不残停止仰せ付けらる」といわれ(「諸用留」野尻源右衛門家文書)、いわば髀肉の嘆をかこっていたのである。八郎兵衛は蝦夷行きを命じられると、彼の地で馬術を試みたいと不要になった馬具の拝借を願っている。
 同時に早川弥五左衛門・中村岱佐・伊藤禁之助などにも蝦夷地出張が命じられ、随従する中間などの人選も進められた。この度は福永鉞之助のように、測量学や器械製造・航海術の修行のために箱館行きを希望する者も出るなど、二月の初めには派遣隊の編制を終わっている。一行は十一日大野を出発し、北陸道をとって蝦夷に向かい、七月一杯探索に従事した(「御用留」土井家文書)。
 この二回目の蝦夷行きでは新たな展開が二つみられた。一つは北蝦夷地まで実地踏査の足を伸ばしたことである。四月十七日箱館を立って北蝦夷地に向かった弥五左衛門と鉞之助はホロコタンまで行き、その見聞に照らし、五月の中頃、先に述べた弁之助の場所の「外」つまり北側を引き受け、国元から漁夫を移し、往く往くは「士農共永住」し、追々相当の冥加を上納し、「御開拓且御固之御一助」にしたいと箱館奉行に伺い出ている。箱館奉行は弁之助の意見も徴したうえで、閏五月十四日、人口が少ないので大漁の機を失することもあり、士農の「土着」は主意にも叶うと老中に上申し、六月十四日に規則を守ったうえでの「稼年季」が許された(『幕外』一六―二一・七〇、「北蝦夷地開拓始末大概記」)。
 弥五左衛門は、八月四日箱館を出発して奥州路を南下し二十日に江戸に着き、二十六日江戸を発って、九月十一日大野に帰った。すでに七月十六日帰国していた利忠から、十月十六日「当年者奥地魯西亜境界迄も実践」したとして表彰されている(「御用留」土井家文書)。なお、閏五月十六日付の箱館奉行宛弥五左衛門の上申書(『幕外』一六―七三)によれば、先住のアイヌと、後からこの地に来た日本人・ロシア人・清国人との間で、利権を巡っての確執があったことが知られる。
 もう一つは幕府が大野藩士とその家族の蝦夷在住を認めたことである。浅山八郎兵衛(母、妻、倅一人、娘二人)と息子浅山太八郎(妻、娘二人)・斎藤金八(妻のみ)について、安政四年七月蝦夷地在住が認められ、手当として一年に金一五両、支度金五両ずつ、また家族一人に金一両二歩ずつ与えられた(土井家文書 資7、「内山隆佐手留」)。



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