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 第六章 幕末の動向
   第二節 若越諸藩の活動
    三 北蝦夷地「開拓」と大野丸
      ウショロ元会所
 安政五年早川弥五左衛門は箱館出張の命を受け、二月下旬出府した。三月十九日箱館奉行から札守右衛門へ次のような達しがあった。すなわち、「北蝦夷奥地西海岸ライチシカより、北ホロコタンまで、家来を立ち入らせ、ウショロに元会所を建て、漁業その他の生産を始め、士農共に在住し、警衛にも当たるように」というものであった(『幕外』一九―三一四)。これに対して弥五左衛門は三月二十二日、在府の箱館奉行堀織部正に「風災震厄、連年の天変」による財政難のため、準備が整わない旨を申し出ている(同三二六)。
写真158 ウショロ元会所跡附近

写真158 ウショロ元会所跡附近

図31 樺太要図

図31 樺太要図

 その後箱館に行った弥五左衛門は、箱館奉行に北蝦夷地の国境、糧米等の直送の可否、「中次所」の建設のほか、場所内の「土人」すなわちアイヌは勝手に召し使っても良いと思うが、ホロコタン住居のスメレンクルも同様に取り扱って良いか伺い出ている。最後のことに対する幕府の回答は、アイヌは「撫育方」に十分配慮して稼がせること、スメレンクルも「服従」すれば同様でよいということであった(同二〇―七四)。
 そして五月二十二日、至急人員を差し向けたいが、手配できないのでやむなく今年は見合わせ、来春から取り掛かりたいこと、「同志の者」と相談のため帰国すること、伊藤禁之助を残していくことなどを申し出ている。しかし禁之助も九月十五日には帰着している。
 なお、阿波の人岡本文平が著わした「北蝦夷新志」(慶応三年)によると、ウショロ(鵜城)について「地勢広ク百物繁殖ス、港内大船数十艘ヲ容ベシ、鰊多シ、越州土井氏ノ開墾地ニテ西岸第一ノ要害ナリ、南久春内ヨリ二十七八里」とある。またホロコタンについては「地勢稍広シ、蝦夷三家、スメレン夷一家アリ、西岸要害ノ地ナリ」と記されている。



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