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 第六章 幕末の動向
   第二節 若越諸藩の活動
    三 北蝦夷地「開拓」と大野丸
      蝦夷地探索
 蝦夷地には早くから近江商人が進出しており、松前藩の御用商人となって莫大な利益をあげていたが、やがてこの地の豊富な物産に目を付けた新興の商人も進出してきた。近江商人が松前近辺を中心にしていたのに対し、新興商人は奥地まで稼ぎ場を持ったのを特色としたという。北蝦夷の地にもすでに幕府の「御直捌場所」があり、南部一帯には代表的な新興商人とされる陸奥出身の伊達と紀伊出身の栖原の両人が漁場を開き、その北方には越後蒲原郡井栗村の大庄屋松川弁之助なる者が漁場を許されていた。そしてこれら商人の稼ぎ場を場所といい、彼等が場所の請負人となる場所請負制によって稼業し、松前藩や幕府によるアイヌの支配と収奪を支えていたのである。大野藩はこのような所へいわば新規に参入したといえるものがあった。 

表170 安政3年(1856)の隆佐などの足取り

表170 安政3年(1856)の隆佐などの足取り



図30 北海道要図
図30 北海道要図
注) 『角川日本地名大辞典 北海道』を参考にした。


 踏査行は表170のように六月の中頃までであったが、いくつかの組に分かれて行っている。天候には恵まれたようで、開墾場や造船所などを見学したり、畑作を試みていることなど注目されるが、初めての北海道であり文字通り難行苦行の連続であった。隆佐によれば、深山幽谷を攀穿して探索したが、何分山も谷も深く、道もないため容易に通ることもできず、高山にはなお残雪がある、金砂・銀屑のようなものがあり掘った痕もあるが役には立ちそうにもなく、無益の費用・時日を費やすのみであったという(「北蝦夷地開拓始末大概記」)。
 立入を許可された地域内では、ついに鉱脈を発見できず「何れも空敷引取」るばかりであった。そのため弥五左衛門は五月二十日、新たに東はヤマクシナイよりネモロ(根室)まで(五人)、西はクドウよりソウヤ(宗谷)まで(六人)、自由に「廻島」することを箱館奉行に願い出た。これは二十四日に許され、「場所之煩ニ」ならぬよう「穏便ニ通行」せよということであった(『幕外』一四―六九)。しかし帰国も決定したため、ほとんど実効はなかったもののようである。
 これより先隆佐は、「夷地全島ハ北門ノ鎖鑰、枢要ノ地」に始まる長大な意見書を提出している(表170)。そこでは、もしこの島が異国に掠奪されれば内地の衰弊は一時に生じるであろう、「無智貪欲」の商人に任せてはならない、全島の利潤は「請負人」とかいう「大坂・江州辺其外遠国」の豪商が独占しているのをやめて、緊要の軍備へ回すべきである、全島の利で全島の警衛は十分行き届く、ついては開墾の場所を大野藩へ渡し「能登守領分同様」に処置させていただき、「諸侯の嚆矢」になりたいといっている。同時に、鉱山を発見できないのを「頑愚ノ夷人ニテハ分リ兼」ねとアイヌの所為にし、アイヌに「何事モ秘シ候悪弊」があるなどという偏見を持っていることも注意しておくべきであろう(「北蝦夷地開拓始末大概記」)。
 しかし箱館奉行の容れるところとならず、一同は一先ず帰邑することに決し、六月二日にはその伺書を提出している。同十六日箱館を出帆、十七日青森に着いた一行は、ここでまた二手に分かれた。隆佐と岱佐は利忠へ報告するため従者四人を連れて江戸に向かい、その他の者は十八日に青森を出発して今度は陸路を南下し、七月十五日大野に帰着している。八月十五日には隆佐なども帰ってきた。「勃気頓ニ挫ク、豈遺憾ナラスヤ」と「北蝦夷地開拓始末大概記」は伝える。
 ただし、蝦夷地往復のことは大野でも大いに評判になった模様である。横枕村の野尻源右衛門は噂によればと断ったうえで、蝦夷では「随分金儲けもできるが、漁業の方が有利で農業の利潤は薄く、人物の形は異国風だそうだ。米価は一俵大野で銀二五匁なのに蝦夷では二〇匁、大豆は二五匁と一六匁、鰊は三匁と銭四〇〇文くらいとのこと」と書き留め、「何共合点行き申さず」と感想を洩らしている(「諸用留」野尻源右衛門家文書)。



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