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 第六章 幕末の動向
   第二節 若越諸藩の活動
    三 北蝦夷地「開拓」と大野丸
      部隊の編制
 十九日には、隆佐に従って「蝦夷地開墾目論見」すなわち実地踏査に遣わされる者の人選が行われ、浅山八郎兵衛のほか奥田乙右衛門・早川弥五左衛門・吉田拙蔵・中村岱佐・鈴木準次が選任された。二十一日には、八郎兵衛と乙右衛門が元〆吟味方兼帯となり、その配下として新たに銅山方から伊藤万右衛門を抜擢し、「金銀銅鉛場」を「見分」(試掘)させるために五番町の金掘師中屋次右衛門等七人、その他伊藤禁之助・山岸伊佐次、火消組政右衛門、中間久蔵・藤三郎・忠兵衛・彦吉、秋生村の与右衛門、鷲村の次助、大樟浦・小樟浦の水主などの派遣も決まり、総勢三〇人ほどの部隊が編制された。二十二日には隆佐から準次まで各二〇両のほか、身分に応じてそれぞれに支度金が下されている。
 なお弥五左衛門はこの時西方代官であったが、二十五日に織田役所を出発して敦賀から小浜に行き、豪商古河屋嘉大夫などの世話で、木綿屋源兵衛の手船(船頭武右衛門)を雇うなど、便船の手配や買物の衝に当たっている(「金銀払帳」「渡海前諸品買上并若州より箱館迄諸雑用勘定帳」「御用留」土井家文書)。すなわちこの時大野藩には北航する船がなく、船頭もいなかったのである。
 三月に入ると一統を会所に呼び出し蝦夷行きに関する「掟」を読み渡した。内容は(1)指図を受けず「自侭」をしないこと、(2)指図なく他出および他人への応対の禁止、(3)何事によらず他言の禁止、もし聞かれても何も知らないと答えること、そして公儀の法度を守り、総じて「ひれつ(卑劣)なる業作」をせず、互いに一致団結して事に当たることが強調されている(「内山隆佐手留」内山良治家文書)。とくに(3)など、初めての大旅行の緊張ぶりがうかがわれて興味深い。
 一行は二手に分かれて出発した。まず三月六日には隆佐・乙右衛門・岱佐等一一人(内町人三人)が江戸経由で陸路蝦夷に向かった。八郎兵衛・弥五左衛門・拙蔵等は九日に大野を出発したが、五月五日に届いた手紙によると、三月二十五日に西方浦を出帆し、四月一日松前着、四日には箱館に着いたという(「御用留」土井家文書)。二十三日(二十四日説もある)には江戸を回ってきた隆佐も箱館に到着し、二十五日から箱館弁天町最上屋八兵衛方へ旅装を解いた(「御用留」土井家文書、「北蝦夷地開拓始末大概記」、「内山隆佐手留」)。



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