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 第六章 幕末の動向
   第一節 松平慶永と幕末の政局
    三 松平慶永の幕政改革
      挙藩上洛計画の紛糾
 文久三年三月、政事総裁職の辞任を許可されぬまま強行に帰国し、逼塞を命ぜられた慶永は、福井帰藩後早速活動を開始する。幕府が朝廷から厳しく攘夷決行を迫られ、外国との談判を開始した場合、なりゆきによっては異国船が大坂湾に侵入し、朝廷との直接交渉を要求する公算が大である。その時は京都に近い福井藩、また隣藩の加賀・小浜がいち早く兵を繰り出さなければならない。そう考えた慶永は、四月十五日加賀・小浜両藩主に使者を派遣して協力を依頼した。また、五月二日には中根雪江を京都に遣わし、京都の事情調査と、幕府や諸藩との意見調整を命じている。
 当時福井には、前年十二月江戸で刺客の襲撃を受け、細川家からその際の処置が士道に悖るとして批判を受けた横井小楠が滞留していた。小楠と小楠の思想に深く感化された家老本多飛騨・松平主馬や、長谷部甚平・村田氏寿・三岡八郎(由利公正)等の藩士は、時局打開のため挙藩上洛計画を立案し、盛んにその実現を画策した。それは、前藩主慶永・藩主茂昭以下、藩士一統再び帰国せぬ覚悟を定めて上京し、(1)将軍上洛中の好機を捉えて、各国公使を京都に呼び寄せ、朝幕の要人列席して談判を開き、万国至当の条理を決定する。(2)幕府の失政は明らかであるから、この上は朝廷が裁断の権を掌握し、賢明の藩主に国政参与を命じ、諸有司も広く諸藩から人材を登用して任用することといった二点の時局対応策を、朝廷・幕府に建言し尽力せんとするものであった。
 五月末の藩議では、ほぼ決議にいたるほどの勢いをみせたが、上京中の雪江の帰国を待ち、京都の状況をたしかめてから議決することとなり、五月晦日帰藩した雪江を加え、改めて連日の大評議が展開された。六月四日の評議で雪江は京都の近情を説明し、挙藩上洛の時期尚早なることを主張して、真っ向から小楠と対立したから、藩論も二派に分かれて紛糾することとなった。しかし、小楠が「今一応人を京師に出し、投ずべきの機を認められし上、決せられ然るべきか」(『続再夢紀事』)と譲歩案を出し、慶永・茂昭もこれを認め雪江も同意した。
 この年七月は、藩主茂昭の江戸参勤の期日に当たり雪江を初めとする挙藩上洛説への反対意見の一つは、現況は未だ上洛より江戸参勤を優先すべきであるというものであった。昨年来、慶永が将軍上洛を強く主張し実現に努力したのは、朝廷・幕府間の君臣の秩序を改めて確認し、それを天下に明示する目的があった。そうした主張を行いながら、一方で幕府と福井藩の間の君臣の秩序を無視することは、未だ許される時期ではないと説いたのである。六月七日の評議は両派大激論を戦わせて、不穏な空気も流れた。しかし、小楠の支援を得て挙藩上洛派が優勢となり、とうてい自説の理解されぬ事を知った雪江は、翌日から出勤を拒否し、ついに藩論分裂の責をとらされて蟄居の上、隠居を命ぜられた。
 雪江を失脚させた上洛派は、幕府に参勤延期の届を提出し、挙藩上洛の好機を探るため、京都に派遣された村田氏寿の帰藩を待った。ところが七月六日福井へ戻った氏寿は、京情を分析して上洛の時期尚早であることを復命した。挙藩上洛派であった氏寿のこの報告に、藩論は再び動揺し、「尚際限もなく参府を延期するは、事の体妥当ならざるに似たり」(『続再夢紀事』)との論が大勢を占め、なお頑強に参勤の延期と上洛を主張した家老本多飛騨等は七月二十三日罷免され、最も強硬論を主張した三岡八郎等も、ことごとく蟄居を命ぜられるにいたった。
 こうして藩主茂昭は、八月中旬参勤のため江戸に発足することとなった。挙藩上洛派を支援して雪江と対立した横井小楠も、同志が次々と失脚する事態に事のならざるを知って、同月さびしく福井を去り熊本へ帰った。



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