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 第六章 幕末の動向
   第一節 松平慶永と幕末の政局
    三 松平慶永の幕政改革
      将軍上洛と政事総裁職辞任
 文久三年三月四日入京した家茂は、同七日三代将軍家光から数えて二三〇余年ぶりの将軍参内を実現した。この日家茂に授与された勅書には、引続き政権を委任する旨が明記されていたものの、その後半部には「国事之儀に付ては、事柄に寄り直に諸藩へ御沙汰在らせられ候間、兼て御沙汰成し置かれ候事」(『続再夢紀事』)との、まさに政令二途の宣言と解される文言があった。慶永は、この一節を尊攘派の策略によるものとして憤激したが、もはやなすすべがなかった。
 慶永がこの上洛中懸命に努力したのは、公武合体派の諸勢力と連帯して幕府の衰勢を挽回し、政局混乱の根本である政令二途に出ずる弊害を、幕府の大政奉還か、朝廷による改めての政権委任か、いずれか一方に確定することによって除去し、可能な限り公卿等を説得して、攘夷の無謀を知らしめることなどであった。しかし、それらの目論見は右の勅書によって、ほとんど水泡に帰した。
 これに先立つ三月三日、将軍家茂を大津まで出迎えた慶永は、家茂に混乱を極める京都の状況や、朝廷内における尊攘派公卿の専横ぶりを報告した上で、「道理に依りて事を成すべきにあらざるものあり、故に此上は将軍職を辞せらるる外、なされかたあらざるべし、慶永も道理の行はれざる世に立ちて、重職を穢すべきにあらざれば、速に職を辞する覚悟なり」(『続再夢紀事』)と進言し、年若い将軍に非常の決意を要求していた。そして、右の勅書に接してますます挫折感に打ちひしがれた慶永は、三月九日以降再三にわたり政事総裁職辞任の歎願書を提出することになる。中川宮や慶喜・山内豊信等は盛んに留任を懇請したが、慶永の決心は変わらず、遂に三月二十一日辞職の許可が得られぬまま、福井への帰国を強行した。
 慶永はこの辞表届捨ての帰国について、相応の厳罰を覚悟していた。しかし、幕府はそれまでの精勤を評価し、総裁職罷免の上逼塞という比較的軽い処分で慶永を免している。
写真148 「虎豹変革備考」

写真148 「虎豹変革備考」

 福井市春嶽公記念文庫には、慶永が九か月という短い政事総裁職在任中に記したと推定される自筆意見書の草稿が保存されている。「虎豹変革備考」と表題されたその意見書には、公武合体策や幕府の私政を去ることなど、慶永の上述の幕政改革意見が簡潔に列挙されているが、その一条に次のような興味深いものが見える。○天下公共之論を議してこれを用るには、巴力門・高門士、則上院・下院之挙なくんバあるべからす、(中略)西洋諸州之史をみるに、ハルリモン・コンモンスありて、国中之政事を公共之論議に登せ、(中略)英ノ王も仏の帝といへども、これを自由にする事を得ず、今皇朝(日本)之制度も一変革して、巴力門を江戸に、高門士を江戸に創建し、此巴力門は幕府の臣下、又ハ諸侯の内なるべく、高門士は諸藩士の有名之者也、
 我が国における最も早い時期の二院制議会論として重要であるが、右に続けて「又ハ巴力門を諸侯の藩士ニ命じ、高門士は百姓町人、又ハ庶人を加ふるも一法なるべし」とも論じている点など、慶永がこの頃目差していた政治理想が、極めて斬新で開明的なものであったことをよく物語っている。



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