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 第六章 幕末の動向
   第一節 松平慶永と幕末の政局
    三 松平慶永の幕政改革
      慶永の上京
 幕府の私政や非政を去って、天下と共に天下を治めるという施政上の理想を抱いていた慶永が、最も重視したのは、将軍上洛の実現であった。将軍家茂が自ら上洛し、朝廷に対して臣下の礼をとり、従来の私政や非政を詫びて尊王の実意を示せば、大政委任の政体が改めて天下に確認され、幕府の威信も回復されると考えたのである。慶永は煮え切らぬ態度で日に日に後退しがちな幕閣を説得して、文久二年九月七日、ようやく将軍上洛の期日を翌春二月中と布告させることに成功した。
 当時京都では、破約攘夷論に転換した長州藩が、三条実美・姉小路公知など尊攘派公卿の支援を得て勢力を増し、武市瑞山を中心とする土佐藩の尊攘派とも連繋して、公武合体を主唱する薩摩藩との軋轢を深めていた。そうした長・土両藩の尊攘激派は、薩摩藩の同志とも結んで勅使の差遣を朝廷に迫り、攘夷の決行を幕府に命ずる勅使が、十月末江戸に到着した。『続再夢紀事』によれば、この時政事総裁職として幕政を担う慶永の苦悩と困窮は、この攘夷別勅使を迎えて頂点に達している。一時は将軍後見職一橋慶喜との協議で、今や開国は公共の天理であり、条約破棄は国際信義に悖り自ら戦禍を招くものであることを奏上し、「若朝廷に於て容られざらば、幕府は断然政権を返上」するほかないといった強硬な対応も検討された。
 しかし、幕閣に大政奉還を決意するほどの覚悟はなく、幕議は紛糾に紛糾を重ねた。結局、ひとまず勅命を受け容れ時機の到来を待つこととなり、十二月五日将軍家茂から攘夷の勅旨に従い、その策略については諸大名との協議を尽くし、上京の上決定する旨の奉答書が勅使に提出された。
 明けて文久三年二月四日、慶永は将軍家茂の上洛に先立ち初めて京都へ入った。朝廷では、幕府から右のような奉答書を取り付けることに成功した三条実美等尊攘派公卿が権勢を得て、勅使をもって諸大名に上洛を促し、幕府の許可を経ず入京する大名が相次いでいたから、政治の中心は既に江戸から京都へ移行した観があった。また、勢いに乗じた過激浪士が天誅と称して暗殺を事とし、薩・長間の反目もますます激化して、京都は混乱を極めていた。
 入京した慶永は、そうした騒擾の原因を政令の出所が朝廷・幕府の二途に出で、それが時には相違し錯綜混雑している点にあると考えた。これを解決するためには、幕府が政権を朝廷に返上するか、朝廷が幕府に政権を委任することを改めて天下に明示するか、どちらかしかない。慶永は混迷を打開する根本が、この政令帰一問題にあるとして解決のため努力している。この時、慶永や一橋慶喜に賛同して公武合体の促進に協力したのは、松平容保・山内豊信(容堂)・伊達宗城・島津久光等、また皇族・公卿では中川宮・関白鷹司輔熈・近衛忠熈・一条忠香・二条斉敬等の人々であった。慶永は政令帰一の問題を家茂入京前に解決すべく、この人々との協議をすすめた。しかし、鷹司・近衛等にも宮中の尊攘激派を抑える威権がなく、思うような成果が上がらぬまま、将軍上洛の日を迎えることとなった。



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