目次へ  前ページへ  次ページへ


 第六章 幕末の動向
   第一節 松平慶永と幕末の政局
    三 松平慶永の幕政改革
      慶永の幕政改革策
 文久二年七月九日政事総裁職に就任した慶永は、その当日まず将軍家茂や老中に対して、自己の施政方針を開陳している。中根雪江の著した『再夢紀事』によれば、慶永の政治大綱は従来の幕府の私政や非政を去り、「天下と共に天下を治める」ことにあった。老中板倉勝静等が、さらに具体的な説明を求めると、対米条約違勅調印のように、朝廷の意向や衆論を無視した幕府の独裁専決が私政であり、安政の大獄のように、天下国家のためいかに優れた言動であっても、幕府の不都合となるものは圧殺するような姿勢が非政である。天下の人心に従って治めることが肝要であり、天下の人心が私とする所を去り、非とする所を改めればよいのである。それを約めて言えば「為天下」の三字に尽きると説いた。

(準備中)

写真147 横井小楠像

 さて、慶永が政事総裁職に就任した頃、側近にあって慶永を補佐したのは、中根雪江と熊本藩士横井小楠である。かねて小楠の才識を高く評価していた慶永は、熊本細川家に折衝して小楠を福井へ招聘し、藩校教育の振興を図り、政治向きの相談相手ともしようと考えた。実際に小楠が福井へ到着したのは、安政五年四月のことで、間もなく慶永は江戸で隠居謹慎の身となったから、二人の本格的な交流は、慶永が政界に復帰して以降のこととなった。
 文久二年七月六日、慶永の招きで江戸へ出た小楠は、慶永や雪江と意志の統一を図り、同九日「国是七条」を認めて幕閣へ建言するなど、早速積極的な行動を開始している。「国是七条」には、将軍の上洛、参勤交代制の緩和、外様・譜代の別にかかわらぬ国政への参画、天下公論の政治への反映、富国強兵策の推進などのことが述べられており、一見して慶永に与えた影響の大きさが知られる。
 しかしながら大方の老中や幕臣にとって、右のような改革は幕府の権威を失墜するものとしか理解できず、慶永に対しても因循で非協力的な態度を示した。雪江や小楠は、老中板倉勝静・大目付大久保忠寛などを説得して周旋を依頼し、次第に幕閣の意識を改造して慶永を助けた。その結果、文久二年閏八月に入って翌春の将軍上洛が内定され、慶永の改革策も少しずつ実施に移されることとなった。これより慶永が実施した幕政改革策は、以下に列挙するようなものである。
  (1)かねての持論どおり参勤交代制を大幅に緩和し、出府は三年に一度、滞府は一〇〇日間と定め、大名妻子の国元居住を勝手次第とする(閏八月二十二日発令)。
  (2)老中初め登営の際は騎馬乗切とし、供揃の人員を削減させる。これにより老中は一か年一五〇〇両、若年寄も一〇〇〇両の経費節減になったという。
  (3)幕府軍制を改革し、歩・騎・砲ともに洋式を採用する。
  (4)幕府職制を改革して、人員削減を図り、営中出仕者の継上下着用を廃止して割羽織襠高袴着用とするなど、服制改革を実施して冗費を省かせる。
  (5)大名等の将軍・幕閣に対する進献物を自粛させ、節倹を指導する。
  (6)京都守護職を新設して会津藩主松平容保をこれに任じ、京都所司代・大坂城代・近国大名を指導する権限を与えて、京都の治安と警備に当たらせる。
 参勤交代制の大幅な緩和を初め、いずれも幕府始まって以来の改革であり、譜代大名出身の幕閣には決断困難なものばかりであったといえるが、こうした改革も幕府の衰勢を立て直すにはいたらなかった。



目次へ  前ページへ  次ページへ