目次へ  前ページへ  次ページへ


 第六章 幕末の動向
   第一節 松平慶永と幕末の政局
    三 松平慶永の幕政改革
      慶永の政事総裁職就任
 安政五年(一八五八)七月、幕命により隠居・急度慎に処せられた慶永は、江戸霊岸嶋の福井藩別邸において、五年に及ぶ謹慎幽居の生活を送った。隠居・急度慎は、大名にとって切腹にも次ぐ重い処罰で、親族や家臣との文通や面会も禁じられるなど、外界とは全く遮断された日々を強いられた。しかし、福井市春嶽公記念文庫に伝わる手沢本からは、生来読書や勉学を好んだ慶永が、この謹慎中に世事に煩わされることなく和漢の書籍に親しみ、ことに平田篤胤の著述を中心とする国学書に深い関心を寄せて、その学問が最もすすんだ時期であったことも知られる。
 慶永の処罰がことごとく解除され、政界への復帰も可能となったのは、五年後の文久二年(一八六二)四月のことであるが、その間に情勢は大きく変転した。安政五年十月には家定病没の跡を継いで、紀伊慶福が十四代将軍に就任し家茂を名乗った。安政の大獄の苛酷な処断が続く中で、翌六年六月から神奈川・長崎・箱館の三港が開かれ、米英露仏蘭五か国との自由貿易が許可されたが、開港場では攘夷派浪士による外国人殺傷が相次いだ。翌万延元年(一八六〇)正月、勝海舟等が咸臨丸で米国へ向け出航し、同年三月三日には大老井伊直弼が桜田門外で暗殺される。直弼に代わり老中筆頭として政務を担当した安藤信正は、公武合体策を推進するため、朝廷に将軍家茂と皇妹和宮の婚儀を奏請し、この年十月勅許が下り、翌々文久二年二月江戸城で婚儀が挙行された。また、文久二年正月には和宮降嫁に憤激した尊攘派の水戸浪士が、坂下門外に安藤信正を襲撃し負傷させた。この事件を契機に尊王攘夷運動が勢いを増し、幕府の公武合体策も十分の成果を収めえなかった。
 やがて文久二年四月中旬、薩摩藩主島津忠義の実父で、忠義を凌ぐ権勢を誇った島津久光が、千余の藩兵を率いて京都に到着した。入京した久光は、自己の抱懐する公武合体策を実現すべく、九か条からなる建議書を朝廷に提出して、その採用を願った。建議書の中には、井伊直弼との政争に敗れて処罰された慶永等を宥免すること、幕政を改革するため一橋慶喜を将軍家茂の後見職に、慶永を大老職に任命すべきことなどの条項があった。それを察知した幕府は、久光の建議による朝廷の命令を受ける前に、自ら処置をとらんとして、四月二十五日慶永等をことごとく赦免した。
 こうして慶永は五年にわたる謹慎幽居の生活から解放され、五月七日には将軍家茂に拝謁、家茂から幕政参与として折々登城するよう命じられて、一挙に政界へも復帰することとなった。
 一方、久光の建議を受けた朝廷では、(1)将軍家茂自ら諸大名を率いて上京し、国家の大計を議すること。(2)薩摩・長州など五雄藩の藩主を国政に参画させること。(3)一橋慶喜を将軍後見職に、松平慶永を大老に任ずることといった三点を幕府に示して、幕政改革を促進させることとし、久光護衛のもと大原重徳を勅使として江戸へ派遣した。六月七日江戸に到着した重徳が、将軍家茂に下した孝明天皇の勅書には、「一橋刑部(慶喜)卿ヲ後見トシ、越前前中将(慶永)ヲ大老トシテ、幕府ヲ扶ケ政事ヲ計ラシメ」(「勅書写」福井市春嶽公記念文庫)との一節があった。幕府はこの勅命に従うため、慶喜・慶永の説得に努力し、慶永のためには新たに政事総裁職の職名を案出した。大老が譜代大名の役職で、家門の福井藩主が務める職名としては不適切であったからである。
 こうして文久二年七月九日、慶永は政事総裁職に就任した。慶喜は、それより先七月六日に将軍後見職に任ぜられていたから、両者連繋して幕政改革に取り組むことになった。幕府創設以来二六〇年、譜代大名と上級旗本を中心に国政を処理してきた幕府にとって、極めて大きな変革であったから、天下の耳目はいっせいに慶喜・慶永の新政に注がれ、その行方を見守った。



目次へ  前ページへ  次ページへ