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 第六章 幕末の動向
   第一節 松平慶永と幕末の政局
    三 松平慶永の幕政改革
      八・一八政変と慶永の再上京
 挙藩上洛をめぐり福井藩論が紛糾を極めていた間にも、我が国の状況は刻々と変転した。慶永帰藩後の文久三年四月二十日、幕府は尊攘派の突き上げによって五月十日を攘夷期限とすることを上奏、諸大名にも布告した。これを受けて長州藩は、五月十日以降下関海峡を航行する米・仏・蘭の艦船に次々と砲撃を加え、六月一日には米軍艦が報復のため下関砲台を攻撃し、これを占領する事態に発展した。七月二日には生麦事件の解決に誠意がみられぬとして、英艦隊が鹿児島を砲撃し、薩摩藩との間に三昼夜にわたる壮絶な戦闘が繰り広げられた。薩長両藩は、これによって西欧の強力な武力と、観念的攘夷論の危険を実感することになった。
 そして八月十八日早朝には、京都の急進的尊攘派を一掃する政変が勃発した。諸雄藩の連合と協力による公武合体を目差す勢力が、中川宮を枢軸とし、会津・薩摩の軍勢を動かして、三条実美等尊攘激派の公卿二一人の参内を禁止し、宮門を警固する長州藩兵を排除して、一挙に政情を逆転させることに成功したのである。追放された三条実美等七人の公卿は、翌日長州へ逃れた。
 政局の急転により朝廷から上京を命ぜられた慶永は、文久三年十月十八日京都へ到着、再び活動を開始する。慶永はまず、既に入京していた島津久光と時局対応策を協議し、公武合体を推進し雄藩の協力を得て幕政を改革すること、天理公道に基づいて開国の必要を天下に知らしめることなどで、意見が一致した。それ以後、中川宮を中心に二条斉敬・近衛忠熈・徳大寺公純の公卿、一橋慶喜・松平慶永・島津久光・山内豊信・松平容保・伊達宗城等が頻繁に集会を重ねた。やがて十二月三十日には慶喜・慶永・容保・豊信・宗城、翌年一月十三日には久光を、朝議参預に任ずる朝命があり、六人は隔日で朝廷と二条城に出勤し、当面の国政の協議に参画することとなった。慶永等の目指した雄藩連合による公武合体の基本形ができたといえる。
 六人の参預は翌元治元年(一八六四)一月四日より会合を開いたが、それぞれの藩を代表して利害や目的に差異があり、順調な運営はなかなか困難を極めた。ことに薩摩藩の裏面工作は周到で、この年一月十五日再入洛した将軍家茂に対する勅諭の内容は、中川宮や近衛忠熈を動かした久光の草案がそのまま採用されるなど、主導権を握ろうとする意図が露骨であったから、慶喜の強い疑惑を呼び、慶喜・久光間に根深い確執を生じた。また、薩摩・土佐等の外様雄藩が朝議に参画することを、幕権の失墜に繋がると考えた幕閣は、当初より参預制度に反対で、朝廷にその解職を奏請するまでになった。
 参預会議では、神奈川鎖港談判、長州藩の処置、大坂港の防備強化、京都守護職の問題などが議案となった。しかし、右のような幕府の反対、内部の確執によって、短時日の内に崩壊を始め、失望した慶永は三月十三日願いにより参預を解任、久光・容保・宗城も翌十四日解任された。



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