目次へ  前ページへ  次ページへ


 第六章 幕末の動向
   第一節 松平慶永と幕末の政局
     二 開国と安政の大獄
      対米条約問題の紛糾
 安政四年十月、将軍家定に謁見した米国総領事ハリスは、江戸の蕃書調所に滞在して、日本側全権の下田奉行井上清直・目付岩瀬忠震と、通商条約について交渉を開始した。審議は前後一三回に及び、翌安政五年正月に至り、条文のすべてが確定されたが、幕府は勅許奏請を理由に、調印を二か月延期し、外交担当の老中堀田正睦を京都へ派遣した。正睦は二月九日参内して、世界の情勢と条約の内容を説明し、調印の勅許を願い出たが、正睦の予想どおりには進展しなかった。
 安政五年二月七日から慶永の命で上京し、九日には内大臣三条実万の説得に当たるなど、条約問題等を解決のため公卿間を遊説しながら活動していた橋本左内は、同年二月二十九日付で京都の形勢を報知する書状(『橋本景岳全集』)を江戸藩邸に送り、「三条公へ拝謁之節ハ極力西洋之事情等説き尽くし候得共……殆ンド充分の御融解相成らず……此ニてハ堀田(正睦)之応接嘸々と案ぜられ候……公家之迂遠寛漫、恃に足らざる事と熟察」と慨嘆している。賢明円熟の人と噂された三条実万でさえ、こうした有様であった。
 そのため三月二十日に至って、西欧との通商は永久の安全を期しがたく、国威を失墜する恐れが高い、今一度諸大名とも議論を尽くすようにとの、条約調印不許可の勅答が下された。対応に苦慮した幕府は、ハリスと交渉して調印期日をさらに三か月延長し、四月二十三日には彦根藩主井伊直弼を大老に任命して時局の収拾に当たらせ、再び諸大名の意見を徴するなどしたが、ハリスの強硬な要求に押し切られ、ついに六月十九日勅許を得られぬまま日米修好通商条約に調印した。国家の重大問題を勅命に反して勝手に処理したのは、朝廷を無視する許しがたい態度であるとして、この違勅調印問題は幕府攻撃の議論を沸騰させ、事態は紛糾を深めることとなる。
 この間、慶永を中心とする福井藩首脳は、前述のような開国通商論を標榜して活動した。ことに慶永は、岩瀬忠震を初めとする幕府有司と意見を交換し、同志大名間の主張を調整して統一を図るなど、積極的な活動をすすめた。例えば、安政四年八月には徳島藩主蜂須賀斉裕・津山藩主松平慶倫・鳥取藩主池田慶徳等を自邸に招いて議論し、その結果対米通商条約の締結は必須であり、ハリスの要求する将軍謁見も拒否し続けるべきではなく、一刻も早く国論を開国通商に統一して国力を結集し、清国の轍を踏まぬよう警戒を深めるべきであるという点で一致している(『昨夢紀事』)。また、幕府へ次々と意見書を提出して、政治方針の是正を図ったが、先に示したこの年十一月二十六日・二十七日付の建言も、このような盟友大名や幕府有司との意見調整を踏まえてなされたものであった。
 そうした活動は、慶永に対する人々の信望を次第に高め、慶永を幕政に参画させようという声も聞かれるようになった。井伊直弼が大老に就任する直前の安政五年四月二十一日、堀田正睦が慶永の大老任命を将軍家定に進言したのも、そうした動きの一つである(『昨夢紀事』)。
 安政五年三月二十日、条約調印不許可の勅答が発せられて後、慶永は原則として勅許を待って調印すべきであるとの態度をとった。しかし、同年五月二十五日付で慶永が徳川斉昭に送った書状(『昨夢紀事』)には、さらに一歩を進めた意見がみられる。すなわち、国内の大勢が条約締結の必要を認めている現状では、ほどなく勅許も下されるはずであり、それを待たずに幕府の一存で調印を強行すれば、外様雄藩を初め幕府の非を責める声が、たちまち国内に充満して人心の動揺を招き、以ての外の大事に立ち至るであろう。とはいえ、朝廷の議論が紛糾して、調印期限となっても勅許が下らぬ場合は、調印に踏み切るしかない。その時、幕府批難を鎮静化し国論を一致に導いて、将来への展望を開くためには、建儲の問題を解決して、幕府の威信を取り戻すしかないというのである。
 建儲の問題とは、世継のいなかった将軍家定の後継者を選定することを指し、対米外交問題と並び、この時期慶永や福井藩首脳が身命を賭して取り組んでいた大問題であった。



目次へ  前ページへ  次ページへ