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 第六章 幕末の動向
   第一節 松平慶永と幕末の政局
     二 開国と安政の大獄
      将軍継嗣問題の発生
 嘉永六年のペリー来航を、国家の独立を脅かす未曾有の危機と受け止めた慶永が、幕府に対し次々と建言書を提出し、その政策を是正しようと努力したことは、前に述べた。当初、強硬な鎖国攘夷論者であった慶永は、まず西欧列強の脅威に対抗しうるだけの武力を、一日も早く充足する必要を進言した。また、国防の充実には裏付けとなる経済力が不可欠であるから、続いて財政安定のための具体的方策を考案して、様々に提言している。さらに世界情勢に認識を深めて、積極的な開国通商論へと転換し、幕府へ対米条約締結の緊要であることを説き、橋本左内を京都へ派遣して、公卿の理解を深めるために努力させるなどした。
 しかしながら、財政が安定し経済力が確保され、それによって国防の充実が図られたとしても、国政を担当する幕府が、賢明な将軍を頂点として明確な国家の方針を打ち出し、国家の安全に対する責任を全うするのでなくては、独立自存を維持してゆくことはできない。時の十三代将軍家定は、安政四年八月二十六日付の村田氏寿宛橋本左内書状(『橋本景岳全集』)に、「大樹公(家定)御病身ニて、中々半時片剋(刻)も御安座被遊儀相成難申、不断顫震攣拘(ふるえひきつること)之御様子ニ被為在、御言語も迚も明朗には御発し被遊がたき由」と報じたごとき有様で、もとより政務統轄の能力もなく、とても慶永が期待する責務を果たしえなかった。こうして慶永の思考は、一刻も早く子供のいない家定の継嗣(跡継)として、英明の人物を決定し、その人を幕政の中心として、目下の重大時局を乗り切ろうというところに発展する。
 右に引用した橋本左内書状には、米国総領事ハリスの将軍謁見を許可するに当たっては、「是非共換魂ニて御名代可有御座」などと、いかにも将軍らしい威厳を備えた人物を、家定の替玉としてハリスと会見させようといった議論が、幕府内でも真剣に討議され、慶永も「御直に堀閣(堀田正睦)へ御換魂可然段、御内達被遊候処、随分聴受之様子相現れ候由」といった状況であったことが記されている。家定がそのような有様であったから、その相続者を選定しようという将軍継嗣問題は、安政四年ともなると外交問題と並び、緊急に解決を要する諸大名共通の重大事案となった。中でも慶永は、ペリー来航の直後、家定が新将軍に就任する頃から、早くもこの問題につき活動を開始したとされる。
 中根雪江の『昨夢紀事』には、嘉永六年七月二十二日、十二代将軍家慶の発喪、家定の将軍相続が公示された当日、慶永は江戸城内において薩摩藩主島津斉彬に対して、継嗣問題につき内談に及んだと記録されている。さらに、同年八月十日には老中阿部正弘を訪ね、この問題につき自己の見解を披瀝し、正弘は一応同意を表明した上で、時節が到来するまで心に秘め、決して他の人には洩らさぬようにと、慶永に忠告したことも記されている。斉彬への内談については、斉彬が江戸にいた期間とのずれがあって、著者雪江に時期的な記憶違いがあるものと思われる。しかし、慶永の周旋によって斉彬の養女篤子が家定に入輿するなど、両者は早くから連繋し、将軍継嗣問題を解決して雄藩連合勢力による幕政の革新を目指していた。



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