目次へ  前ページへ  次ページへ


 第六章 幕末の動向
   第一節 松平慶永と幕末の政局
     二 開国と安政の大獄
      積極的開国論への転換
 『奉答紀事』嘉永二年の条には「此年の御在府ニ至りてハ、公の御孝義及御倹政、海防之儀等、諸藩に先立て御勉励……御令誉御名望益高く、有志の諸侯方・御旗本衆抔、謁を執つて依頼せらるゝ最多かりしなり」と、二二歳の慶永がその藩政改革への取組みなどを評価され、江戸において早くも高い名望を得ていたことが記されている。ことにペリー来航の嘉永六年には、老中首座阿部正弘に、慶永の養女謐(松平直春女、清心院)が嫁いだこともあって、正弘から深く信頼され、慶永も正弘の幕政改革を側面から援助するなど、協力関係を保った。こうして慶永は、安政期に入ると家門の大名によって構成される大廊下詰諸侯の中で、次第に嘱目されることとなった。
 前に示した嘉永六年八月六日の幕府への答申の中で、慶永は開国通商の要求を拒絶するべきであるとし、強硬な攘夷論を展開したが、それは、その時点での福井藩論でもあった。兵備を強化し、事あれば必戦の覚悟を定め、独立国としての気概を保たねばならないとする主張は、慶永においてその後も堅持された。しかし、襲封以来の藩政改革に際して、西欧の学術導入に深い理解を示し、牛痘種痘を初めとする洋医学や洋式兵術を、奨励した慶永であったから、安政元年春以降、米・英・露との間で次々と和親条約が締結され、それが朝廷にも嘉納される状況の中で、我が国を取り巻く国際情勢を認識し、その思想は次第に積極的な開国通商論へと変化した。
 慶永が提唱し、福井藩論の大勢を占めるに至ったその開国通商論が、最も明確に表明されているのは、安政四年十一月二十六日・同二十七日付で慶永が幕府へ提出した二通の建言書である(「建言拾遺」)。この年十一月一日、幕府は通商の開始を強く迫る米国総領事ハリスの演説筆記を諸大名に示し、通商条約締結の可否について諮問した。右二通の建言書は、慶永が中根雪江・平本平学・橋本左内といった近臣達と協議し、その諮問に答えたものである。
 十一月二十六日の建言では、まず世界の形勢から考えて鎖国を続けるべきでないことは瞭然であり、むしろ我が方から海外に乗り出し、諸外国と交易することを企望すべき時節である。そうした折柄、道理をもって貿易を希望する米国の申し出は、拒絶してはならないと説く。また、強兵の基礎は富国にあり、富国のためには諸外国との貿易を促進しなければならない。しかし、貿易には利害得失があり、国ごとの風習の相違もあって、紛争を生じがちである。目下最も警戒すべきは露・英二国の動静であるが、清国のアヘン戦争を教訓として対処しなければならないとする。そして、先んじて人を制すの精神に立って外国の来貢を待つのではなく、「我より無数之軍艦を製し、近傍之小邦を兼併し、互市之(貿易)道繁ニ相成候ハゝ、反て欧羅巴諸国ニ超越する功業も相立」つであろうと結論している。
 また、十一月二十七日付の建言は右二十六日付の建言をいっそう詳細にして、幕府当局の参考に供そうとしたもので、福井藩首脳の構想した開国通商策が、余すところなく論じられている。
写真145 村田氏寿

写真145 村田氏寿

写真144 橋本左内像

写真144 橋本左内像

 橋本左内が安政四年十一月二十八日付で、江戸から国元の村田氏寿に差し出した書状(『橋本景岳全集』)には、この二通の建言書が、ほとんど慶永自身の手で執筆されたことを示す記述がみられる。すなわち、この建言書は「十が九ハ御自身様ニて被遊候丈ニて、当日迄ニは凡四五度も御草稿相替り、色々御推敲御座候故、御当日ニ到り小拙聊御添削申上」、提出の運びになったものであるというのである。また、「定て御地執政方(家老)も、御上書ニは一寸御退避可被成奉存候、君上(慶永)ニは其辺之御勇断ハ充分被為在候」とも記されている。国元家老の中には、この建言書の内容に驚き納得しない者もあるというのだから、積極的開国通商論は、この時点では必ずしも全藩士の一致した見解とはなっていなかった。しかし、慶永にはそれを説得し従わせる自信と決意があったというから、この年三〇歳の慶永は、藩主として藩のとるべき方向を明示し、藩論をまとめあげる力を身に付けていたことになる。



目次へ  前ページへ  次ページへ