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 第六章 幕末の動向
   第一節 松平慶永と幕末の政局
     二 開国と安政の大獄
      国防充実の提言
 福井市春嶽公記念文庫には、慶永自筆のそうした建言類の草稿が多数保存されている。次に示す安政二年(一八五五)十月十六日の徳川斉昭宛意見書も、慶永の直書で発信されたものであるが、これ以後の建言類の大部分が慶永自身の手で起案され、提出されていることは注目すべきであろう。
 さて、幕府より政務参与を命じられていた徳川斉昭に提出したその意見書には、軍艦建造について、「神州(日本)を護候重器の故を以、日本全国之石高ニ割付……高百石ニ付二十金ツゝ之課役を以……被仰付候ハゝ越前国ニても六万余金を出し、幾数艘之軍艦造出し可申」などと、その費用を全国の石高に割り付けて徴収する方法を考え進言している。
 さらに同じ意見書で、当時諸大名を二分して、隔年の交代を義務付けていた参勤制度を緩和して、「まづ十五年を限り、四分して四年ニ一度之参覲ニ相成」といった大幅な改革を実施するよう提言している。各地の大名は、それによって浮いた費用をもって、三年間の在国中に領国の海防や武備の充実に努めることが可能となるというのである。やがて文久二年(一八六二)七月、政事総裁職に就任して幕政改革に着手した慶永が、第一に断行したのが、この参勤交代制の緩和であった。慶永の実際の改革では、出府は三年に一度、一〇〇日間だけ江戸に詰め、妻子の国元在住は勝手次第と定められたが、決断さえあれば実現可能な提言であった。
 しかも、以上のような戦備の増強と経済の立直しは、前項に述べたとおり、慶永にとってはすでに自藩において推進中の事柄であったから、同じ意見書中に「右之趣共……傍観紙上之空論虚策ニは決て無之、自家丈ケ之儀ハ一々講究体験仕候上之儀ニ御座候」と述べ、その採用を強く請願している。要するに、この時期の慶永は国家財政を安定確保し、それによって西欧列強の脅威をはねのけうる軍事力を充足して、我が国の独立自存を維持しようとしたのである。それは、慶永が襲封以来福井藩で試み、次第に成果を収めつつあった藩政改革の大綱を拡大して、幕政上にも適用しようとしたものであったとも考えられよう。
 慶永がこうした建言を繰り返し、幕政の改革を提言した間に、安政元年三月日米和親条約が締結され、同八月には日英和親条約、十二月には日露和親条約、翌二年十二月には日蘭和親条約が次々と調印された。寛永十六年(一六三九)以来の鎖国政策が解かれ、我が国は国際社会に一歩を踏み出すこととなったのである。



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